横田高松 ~殿軍として砥石崩れを支えた、武田五名臣

横田高松 ~殿軍として砥石崩れを支えた、武田五名臣

横田高松

 横田高松とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣です。
 武田信玄に仕えた武田五名臣の一人として知られますが、信玄が砥石城を攻めた際に殿軍を務め、戦死しました。

 横田高松(よこた たかとし)
 生年  1487年(長享元年)?
 没年  1550年(天文19年10月1日)
 別名  十郎兵衛
 主君  六角氏⇒武田信虎⇒武田信玄
 子   横田康景正室
     養子:康景

六角家臣から武田家臣へ

 横田高松は1487年(長享元年)に、近江国甲賀郡にて誕生したとされています。

 高松の横田氏は佐々木経方を祖とする佐々木氏の出であり、高松は同じ一族である南近江守護であった六角氏の家臣だったようです。

 どのような経緯を経たのかは分かっていませんが、高松は六角氏家臣の列から離れ、甲斐国へと入り、甲斐守護であった武田信虎に仕えました。

 高松は弓矢の扱いに優れていたとされ、足軽大将となってからは同じ武田家臣・甘利虎泰の相備えとなって、各地で武功をあげたとされています。

信濃侵攻

志賀城攻め

 横田高松の活躍の記録が確実な史料のもとで見られるのは、武田信玄の代になってからです。

 信玄が行った信濃侵攻において、1546年(天文15年)に信濃国佐久郡の志賀城攻めを行いました。
 志賀城には城主・笠原清繁が拠っており、信玄の侵攻に対して抵抗を続けていたといわれます。

 志賀城は地理的に隣国である上野国に近く、そこを拠点としている関東管領の上杉氏の援軍が期待できました。
 そんな志賀城に対し、信玄は包囲戦を開始し、水の手を絶ち、志賀城を危機に陥れます。

 このような状況に際し、関東管領・上杉憲政は援軍を派遣。金井秀景率いる大軍を向かわせました。

小田井原の戦い

 志賀城を包囲していた信玄は、この報を聞いて、横田高松、板垣信方、甘利虎泰といった重臣を別働隊として編成し、上杉軍の援軍を迎撃すべく派遣。

 両軍は小田井原にて合戦に及びました。

 この戦いで高松らは活躍し、関東管領軍を撃破して大勝。
 敵将14、5人に、兵3,000を討ち取るという勝利でした。

砥石崩れ

上田原の戦い

 信濃侵攻を続ける信玄は、北信濃の戦国大名・村上義清との対決に至ります。

 1548年(天文17年)、武田、村上両軍は上田原にて決戦に及びました。

 この戦いにおいて武田信玄は、猛将として知られる村上義清を相手に大敗を喫します。
 重臣であり、先の小田井原の戦いにて高松と共に活躍した板垣信方、甘利虎泰といった宿将を失うなど、信玄にとって大きな痛手となったのです。

砥石城攻め

 信玄は上田原の戦いに敗れたことでいったん劣勢になるものの、その後勢力を回復させて、再び村上義清に挑むため、村上氏の拠点の一つであった砥石城を攻めました。

 しかしこの砥石城は難攻不落の要害であり、城兵500の篭る砥石城を武田軍7,000が攻めるも攻めきれず、やむなく撤退に至ります。

 この撤退戦において、機を逃さず村上軍が猛追し、武田軍は大混乱となりました。

 高松は混乱する中で自らの手勢を殿軍として踏みとどまり、村上軍を攻撃を引き受け、討死しました。享年64。

 横田高松の死を信玄は悲しみ、「武篇の者になろうとするなら、原美濃(虎胤)横田備中(高松)のようになれ」と言ったと伝わるほどの名将であったことが窺えます。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
横田高松  81  78  72  65

 武田家臣はみんながみんな、やたらめったら優秀なのですが、この方も優秀です。
 知勇兼備、といった呈のバランスのとれた能力。
 まさに名臣の一人、ですね。

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