魚住景固 ~越前一向一揆にて滅亡した、朝倉氏旧臣の一人

魚住景固 ~越前一向一揆にて滅亡した、朝倉氏旧臣の一人

 魚住景固とは戦国時代の武将であり、朝倉氏の家臣。
 朝倉氏の滅亡後は織田氏に仕えるも、同じ朝倉氏旧臣であった富田長繁によって暗殺されたことで知られています。

 魚住景固(うおずみ かげかた)
 生年  1528年(享禄元年)
 没年  1574年(天正2年)
 別名  彦四郎
 主君  朝倉義景織田信長
 親   魚住景栄
 子   彦三郎 彦四郎

朝倉氏家臣時代

魚住景貞

 魚住景固は1528年(享禄元年)に生まれます。
 父親は魚住景栄。

 魚住氏は曽祖父である魚住景貞はもともと播磨国の赤松氏に仕えていましたが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、のちに朝倉(英林)孝景に仕えました。

 魚住景貞は外交面で活躍し、孝景の東軍寝返りを実現させた人物としても知られています。

一乗谷奉行人として

 景固は朝倉義景に仕え、一乗谷奉行人として河合吉統らと共に内政面で活躍したとされます。

 眼病を患っていたとされるものの、戦場にも赴いており、堀江景忠の謀反の際には反乱鎮圧に出陣し、また織田氏との戦いでも活躍しました。

 しかし1570年(元亀元年)の姉川の戦いでは命に反して軍を動かさず、1573年(天正元年)に朝倉氏の滅亡が迫ると、その寸前に織田信長に降伏。
 嫡男である彦三郎を人質として差し出し、織田勢を越前領内において道案内などをすることで、所領を安堵されたといいます。

富田長繁と越前一向一揆

 朝倉氏が滅亡した翌年の1574年(天正2年)、越前国において朝倉氏の旧臣同士による内乱が勃発し、越前一向一揆へと拡大します。

 主家滅亡後、越前国の守護代となっていた旧臣・桂田長俊は、同じく旧臣であり朝倉氏を共に裏切った富田長繁と対立し、長繁は一揆を扇動して桂田長俊を一乗谷に滅ぼすという事件が起きました。

 そののち、景固は長繁によって次男・彦四郎と共に招かれ、朝食の席において酒をすすめ、更には秘蔵の太刀を見せる、と誘った上で斬殺に及びました。

 翌日には嫡男の彦三朗も長繁によって討ち取られ、魚住氏は滅亡します。

 しかし景固は温厚で仁者として知られ、領民に慕われた存在でした。
 それを何の理由も無く討ち取ったことで、富田長繁に従っていた一揆勢は離れ、逆に攻め立てられ、長繁もまた滅亡することになるのです。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
魚住景固  25  34  39  66

 頭も悪ければ戦もできず。
 奉行人というだけあって、政治はそこそこ。
 まるで主君だった義景に似た能力です。

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