築山殿 ~徳川家康の正室、瀬名姫

築山殿 ~徳川家康の正室、瀬名姫

丸に三つ葉葵(徳川葵) 築山殿とは戦国時代の女性であり、徳川家康の正室です。
 名前は分かっておらず、一般的に築山殿と呼ばれています。
 夫である家康に暗殺されたとされています。

 築山殿 (つきやまどの)
 生年  不詳
 没年  1579年(天正7年9月19日)
 別名  築山御前 駿河御前
 家紋  徳川葵
 親   父:関口親永
     母:今川義元の養妹(井伊直平娘?)
 兄弟  正長 道秀 大谷元秀
 夫   徳川家康
 子   信康 亀姫(奥平信昌室)

来歴

出自

 築山殿の生年は分かっていません。

 父親は今川刑部少輔家であった関口親永で、駿河今川氏の有力家臣でした。

 母親は主君・今川義元の妹、もしくは養妹であるとされ、築山殿は義元の姪に当たることになります。

 一方で井伊直平の娘、または孫娘であったとされ、一度今川義元の側室となった上で、養妹とし、関口親永に嫁いだともいわれています。

徳川家康との結婚

 1557年(弘治3年)に、当時今川氏の人質となっていた松平元信(徳川家康)と結婚。

 1559年(永禄2年)には長男・松平信康を、1560年(永禄3年)には長女・亀姫を産んでいます。

桶狭間の戦い

 1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いが今川氏と織田氏の間で勃発し、今川義元は討死しました。

 これにより家康は今川からの独立を期して岡崎に帰還。
 その上で織田信長と清洲同盟の締結に至ります。

 このことが義元の跡を継いだ今川氏真の怒りを買うことになり、築山殿の父・親永は自害する憂き目に遭いました。

 築山殿は家康配下の石川数正が駿河に赴き氏真を説得。
 鵜殿氏長、鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換を申し入れ、駿府より岡崎へと移り、難を逃れます。

 岡崎に移っても、岡崎城ではなく城外の西岸寺に居住したことなどから、今川氏との手切れの際に離縁された可能性も指摘されているようです。

 1567年(永禄10年)に織田信長長女・徳姫と、築山殿の長男・信康が9歳同士で結婚。

 1570年(元亀元年)には信康が嫡子となって岡崎城へと移ったことから、築山殿も岡崎城に入りました。

暗殺

 その後家康は、本拠を遠江国の浜松に移しましたが、築山殿は信康と共に岡崎に残ります。

 信康と徳姫の間には、登久姫や熊姫といった姫が誕生しましたが、息子は生まれず、築山殿は心配して元武田家臣で浅原昌時の娘や日向時昌の娘などを側室として迎えさせています。

 1579年(天正7年)、徳姫に関する讒言を築山殿が信康に対してしたことや、築山殿と唐人医師・減敬との密通、また武田家との内通があったなどして、徳姫は12ヶ条の訴状を信長に送付。

 これを受けた信長は家康に対し、信康の処刑を命じました。

 これにより築山殿は岡本時仲と野中重政によって暗殺され、信康もまた二俣城にて切腹するに至ります。

冤罪か、それとも

 通説ではこのように築山殿は最期を迎えましたが、12ヶ条の訴訟にあるような疑惑に関し、確かな史料ではそのような記事は見当たらないとし、冤罪の可能性も指摘されているようです。

 築山殿・信康と徳姫が不和や家康と信康の対立などから、信康をかついで叛意を抱くものや、信康のもとにいるが家康に忠実なもの、または信康の器量に対して危ぶんで反感を持つものなど、家中が混乱し、粛清のために件の通説は作り上げられたのではないか、という説もあるようです。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
築山殿  68  74  69  59

 なぜか武勇が高め。
 あとは平凡ではあるものの、成長すれば十分に使えます。
 しかしなぜ武勇が高いのだろう……。

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