鳥居成次 ~甲斐谷村藩初代藩主

鳥居成次 ~甲斐谷村藩初代藩主

鳥居笹 鳥居成次とは戦国時代から江戸時代にかけての武将であり、大名です。
 関ヶ原の戦いの前哨戦となった、伏見城の戦いで玉砕して果てた鳥居元忠の三男として知られています。

 鳥居成次 (とりい なりつぐ)
 生年  1570年(元亀元年)
 没年  1631年(寛永8年6月18日)
 改名  久五郎⇒成次
 別名  土佐守
 家紋  鳥居笹
 主君  徳川家康⇒徳川忠長
     ⇒改易
 親   父:鳥居元忠
     母:松平家広の娘
 兄弟  康忠 忠政 忠勝
     忠頼、忠昌
     土岐定政室
     戸沢政盛室
 子   忠房 忠春
     娘(井上正利正室)
     娘(日向政次室)
     娘(八木豊次室)

鳥居元忠と石田三成

 成次は1570年(元亀元年)に、鳥居元忠の三男として誕生しました。

 幼い頃より父・元忠と共に徳川家康に仕えたとされています。

 1600年(慶長5年)、家康が会津征伐に出陣する際、伏見城は父・元忠に託され、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城攻防戦において、元忠は玉砕しました。

 関ヶ原の戦いは東軍勝利に終わり、主導者であった石田三成は捕縛。

 伏見城にて三成に父を攻め殺された成次の元に、その三成の身柄は父の仇として預けられることになります。

 しかし成次は三成に対して少しも恨むことなく、小身でありながら大身の主家に対してよく戦った人物として衣服を与えて厚遇したといい、三成もまた成次のことを大いに賞賛したと伝わっています。

郡内領主として

 武田氏滅亡後、天正壬午の乱を経て武田旧領は家康が領していましたが、小田原征伐により後北条氏が滅んだ後、家康は関東に移封。これにより豊臣系の大名が領することになりましたが、関ヶ原の戦い以後、家康は甲斐国に浅野氏を移封させ、再び直轄化しました。

 甲斐国の中で甲府一帯の国中地方は城代・平岩親吉のもとで四奉行と代官制によって統治されていましたが、かつて甲斐東部の郡内領2万石は父・元忠が支配していた経緯もあって、その郡内の支配は浅野氏重に代わって成次が着任することとなり、国中地方とは別の独自の統治を行うようになります。

 1615年(慶長20年)には、徳川氏と豊臣氏との対立から大坂の陣が勃発。
 成次もこれに従軍し、軍功を挙げます。

徳川忠長家臣時代

 1615年(元和元年)になると、江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠の次男であった、忠長が甲斐を拝領することになり、成次は郡内領主の地位のまま、朝倉宣正と共に忠長の附家老となりました。

 1624年(寛永元年)には忠長は駿河・遠江・信濃国小諸を加増。
 成次も駿河国での加増を受けて、3万5000石を領します。

 こういった忠長の領地の拡大に伴って、支配機構の再編が行われることになり、朝倉宣正は東海地方担当として駿河国掛川城げと移ったことで、成次は甲斐国の支配を一任されるようになります。

改易

 しかし1631年(寛永8年)、忠長は家臣1名もしくは数人を手討ちにしたという不行跡を理由として、3代将軍・徳川家光より蟄居処分を受けます。

 そして加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易され、領国は没収。
 成次や宣正も連座して、改易となりました。

 成次は赦免のために奔走したもの、同年に死去。享年62。

 成次の息子である忠房もまた、赦免のために奔走したものの、その後1634年(寛永10年)に、忠長は幕命により自刃しました。

 忠房もまた山形にて蟄居の身となり、1636年(寛永13年)に赦免されたものの、翌年に32歳にて死去することになります。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
鳥居元忠  65  61  39  51

 徳川にとっての功臣には違いないのですが、伏見城の戦いや上田合戦など敗戦のエピソードの方が有名なせいか、評価は決して高くないですね。
 どちらかというと、戦向きの能力。
 知略は低めで政治は並み。
 成次の後半生についてはあまり知られていませんが、石田三成とのエピソードは有名です。

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