真田幸昌 ~主君秀頼に殉じた、信繁の嫡男

真田幸昌 ~主君秀頼に殉じた、信繁の嫡男

真田六文銭 真田幸昌とは江戸時代初期の武将です。
 真田信繁の嫡男にあたる人物であり、母親は竹林院と呼ばれる人物で、大谷吉継の娘にあたります。
 幸昌の名前は、祖父である真田昌幸の名を反対にしてつけられたものとして知られ、その幸昌という名前よりも、通称である「大助」という名前の方が一般的です。

 真田幸昌(さなだ ゆきまさ)
 生年  1600~1603年(慶長5~8年)
 没年  1615年(慶長20年)
 主君  豊臣秀頼
 家紋  六文銭(ろくもんせん)
     結び雁金(むすびかりがね)
 親   真田信繁 母 竹林院
 兄弟  阿菊 於市 阿梅 あくり
     なほ 阿昌蒲 おかね
     守信 三好幸信

出生と、その生涯

 幸昌が生まれた時期は、実のところはっきりしていません。1600年(慶長6年)から1603年(慶長8年)の間とされているようです。

 この時期といえば、関ヶ原の戦いが終わった頃であり、父・信繁は、祖父・昌幸と共に西軍に組したため、石田三成の敗北後、紀伊国の九度山に蟄居させられることになりました。
 つまりその頃に生まれたのが、幸昌ということになります。

 蟄居生活は長く、14年が経過した1614年(慶長19年)、運命の大坂の陣が勃発しました。

 この直前、父・信繁は大坂方から誘いを受け、九度山を脱出。幸昌もまたこれに従ったとされます。
 冬の陣では目立った活躍は無かったようですが、翌年の大坂夏の陣において、出陣。道明寺の戦いに参加します。ここで幸昌は敵将の首をあげる手柄をあげますが、自身もまた手傷を負ったようです。

 その後、主君である豊臣秀頼の元で秀頼を見届けるよう父・信繁に命じられ、大坂城に戻ったとされます。幸昌自身は信繁に最後まで従うつもりであったそうですが、叶わずに秀頼のもとへと向かいました。

 そして最終決戦である天王寺・岡山の戦いにおいて、信繁は戦死。大坂方の敗北は確実となります。

 大坂城に幕府軍の侵入を許し、落城は必至となる中、速水守久によって幸昌は脱出を勧められました。

 当時の幸昌はまだ十代という若年であり、なおかつ豊臣とは何の縁もなかったからであったとされています。あくまで父・信繁に従ったわけで、秀頼から何かしらの恩顧を得たことも無かったからです。

 ちなみに速水守久という人物は、大坂城落城の際に秀頼の介錯をした上で殉じた人物として知られています。この介錯に関しては毛利勝永であるという説もあります。

 しかし幸昌はこれを拒否。秀頼の切腹に殉じることを選びました。介錯は加藤弥平太であったとされています。享年は出生が不確かなため、13~16であったようです。

 いずれにせよ、真田信繁の嫡男であり、秀頼の切腹に際して殉死したことに関しては、美談として有名であり、現代に伝わっています。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
真田幸昌  62  72  62  29

 年若く、これといった戦功があったわけもないのですが、そう考えると高く評価されているようですね。やはり父親である信繁の息子、ということが評価されたようです。

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