真田信之 ~真田家存続に尽くした名将

真田信之 ~真田家存続に尽くした名将

真田信之

真田六文銭 真田信之とは安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、大名。
 信濃上田藩および、信濃松代藩の初代藩主としても知られています。
 真田幸村こと真田信繁の兄であり、父である真田昌幸らと関ヶ原の戦い前夜に袂を分かち、徳川について、その後真田家を存続させました。

 真田信之(さなだ のぶゆき)
 生年  1566年(永禄9年)
 没年  1658年(万治元年)
 改名  源三郎⇒信幸⇒信之
 別名  一当斎
 主君  徳川家康⇒秀忠⇒家光⇒家綱
 親   父:真田昌幸 母:山手殿
 兄弟  村松殿 信繁 昌親 信勝
     真田幸政室 鎌原重春室
     保科正光室 趙州院
     清光院(妻木頼熊室) 於楽
 妻   正室:小松姫(本多忠勝の娘)
     側室:清音院殿(真田信綱の娘)
        右京(玉川秀政の娘)
 子   信吉 信政 信重
     まん(高力忠房室)
     まさ(佐久間勝宗室)
     道鏡慧端

武田家臣時代

父・昌幸の家督相続

 真田信之は真田昌幸の長男として、1566年(永禄9年)生まれました。

 父・昌幸はもともと真田家の三男であったため家督継承の可能性は無く、武藤家の家督を継承していたのですが、1575年(天正3年)の長篠の戦いにて二人の兄の真田信綱・昌輝が戦死。
 これにより急遽、昌幸は真田姓に戻って、その家督を継承することとなります。

 信之は信綱の嫡女である清音院殿を正室に迎えますが、信之にとって清音院殿は従兄弟にあたり、そういった婚姻が行われたのは、父・昌幸が真田家当主としての正当性を確保するためであったのではないか、とされているようです。

 武田家の家臣時代には、武田の人質として過ごしていたとされます。

 1579年(天正7)に、信之は元服。
 武田信玄の一字の賜り、信幸(信之の改名するのは後年)と名乗りました。

天正壬午の乱

武田氏滅亡

 1582年(天正10年)、主家であった武田氏は、織田信長による甲州征伐によって滅亡。
 信之は同じ人質という扱いであった母・山手殿と共に、上田にいる昌幸の元へと逃れます。

 武田氏を滅ぼした織田氏も、時をたたずに発生した本能寺の変により、当主であった織田信長が横死。

 これを契機に、甲斐・信濃では天正壬午の乱が発生しました。
 これは武田の遺領が一時的に空白地となったことで、周辺の大名である徳川、北条、上杉などが争ったことをいいます。
 更には信之の父である昌幸もこれに加わり、非常に複雑な情勢となりました。

北条氏から徳川氏へ

 相模国の北条氏直は、織田家臣であった滝川一益を神流川の戦いで撃破。
 一益は上野を放棄して、織田領に撤退し、真田氏はそれを支援し、見送ったとされています。

 織田氏が去ったことで、真田氏は後北条氏に臣従。
 北条氏は川中島まで進出し、越後の上杉氏と対峙することとなります。

 信之は信濃に進出した上杉景勝を相手に、上杉領の海津城を撹乱するなど、北条氏方として活躍しました。

 しかし徳川家康に臣従していた武田の旧臣・依田信蕃や、叔父であった真田信尹の勧誘を受け、真田氏は沼田城を奪還して北条氏と敵対する道を選ぶことになります。

 この時信之は手勢800を率いて的勢5,000の篭る手子丸城を一日で攻略。
 大きな武功をあげました。

 やがて真田氏は北条氏を沼田から駆逐することに成功します。

小県郡の支配確立

 1584年(天正12年)、真田氏は信濃国の小県郡に割拠する室賀氏と抗争し、いくつかの戦闘に勝利して両者は和睦となります。

 信之はこの際に、昌幸と共謀して室賀家当主であった室賀正武を暗殺。
 これにより小県は真田氏の支配するところとなりました。

 同じ年に北条氏が侵攻してくるも、信之は吾妻仙人窟にてこれを撃退するなど、活躍をみせます。

豊臣秀吉に臣従

第一次上田合戦

 1585年(天正13年)、それまで敵対していた徳川氏と北条氏が同盟し、その条件として上野沼田領の割譲があげられ、真田氏は徳川氏と断行。
 以後、上杉氏に臣従することとなります。

 そのため徳川氏は真田氏の拠る上田城へと軍勢を派遣。鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを派遣しました。

 これがいわゆる第一次上田合戦です。

 この戦いで信之は砥石城に入り、側面から徳川勢を攻撃するなど、真田氏の勝利に貢献することになります。

 結果的にこの戦いは、徳川氏の重臣であった石川数正が出奔するなどの事態も発生して、徳川勢が撤退し、真田氏の勝利に終わりました。

 その結果、父である昌幸の智謀が評価され、真田氏の評価が高まり徳川氏は真田氏に対して懐柔策を取ることになります。

 徳川家康の重臣の本多忠勝の娘・小松姫が信之の正室となったのは、その懐柔策の一つであったとされ、また忠勝自身も信之のことを高く評価していたため、といわれています。。

真田氏の大名化

 その後真田氏は、豊臣秀吉に臣従。
 徳川氏とも和睦し、家康の与力大名となりました。

 領主から大名へと、真田氏はその規模を拡大させていくことになります。

 1594年(天正18年)には、従五位下伊豆守に叙任。

 また朝鮮出兵である文禄・慶長の役においては、肥前名護屋に赴いたとされています。

第二次上田合戦

関ヶ原の戦い

 真田氏や徳川氏に続き、上杉氏も豊臣政権に臣従する一方、北条氏はこれに抵抗を続け、1590年(天正18年)には小田原征伐が始まり、敗れた北条氏は没落しました。

 天下の大勢は定まったかにみえましたが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去。

 その後、徳川家康の影響力が増し、五奉行であった石田三成との対立が激化。
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発しました。

 父・昌幸は最初、徳川家康に従って上杉征伐に向かいましたが、石田三成の挙兵に伴い、信之の弟・信繁と共に離反。
 上田城に帰還して抵抗の構えをみせました。

 しかし信之はここで父らと袂を分かち、東軍である徳川家康へと与し、真田家は事実上、二分されました。

 このような決断に至った理由として、関ヶ原の戦いにおいて西軍、東軍どちらが勝利しても真田氏を滅亡させないための策であった、とされています。

 しかし一方で、信之の妻は徳川方重臣・本多忠勝の娘であったことや、弟・信繁の妻は西軍の大谷吉継の娘であったこと、また父・昌幸の妻は石田三成の妻とは姉妹であったことなど、姻戚関係などの絡みによるものであったのではないか、とも考えられているようです。

上田城の戦い

 東軍方となった信之は、父や弟の篭る上田城へ進軍。

 この骨肉の争いを家康が命じたのには、信之の心中を試すものであったとされています。
 
 上田城において、信之が攻めてきたことを知った信繁は、戦わずに支城の砥石城を放棄。信之は砥石城へと入り、この戦いにおいて両軍の真田勢が争うことはなくなりました。

 砥石城が落ちたことで、進軍していた徳川秀忠勢は上田城の攻略に着手。
 
 しかし攻略できず、第二次上田合戦もまた、真田氏の勝利となりました。

江戸幕府発足後

上田藩主として

 関ヶ原の戦い以後、信之は流罪に処された父・昌幸に代わり、上田を所領して9万5000石の上田藩主となります。

 昌幸、信繁父子は信之の助命嘆願によって助けられ、この際に信之は、その名を「信幸」から「信之」に変えたとされています。

 藩主となった信之は、戦により荒廃した領内の再建に苦心しつつ、一方で父や弟への援助も行っていました。

大坂の陣

 1614年(慶長19年)、徳川幕府と豊臣氏の間に大坂の陣が勃発。

 しかし信之は病のため出陣できず、代わりに長男・信吉と、次男の信政を派遣しました。

 その後、上田から同じ信濃国の松代に移封。
 加増されて13万石の大名となります。

後継者騒動

 1656年(明暦元年)、長男であった信吉や、その子であった熊之助がすでに死去していたこともあり、次男の信政に家督を譲り、信之は隠居しました。

 しかし1658年(万治元年)に、その信政も死去。

 これにより真田家では後継者争いが勃発しました。

 これは長男・信吉の血統である沼田城主であった信利が、次男の血統であった信政の六男・幸道の相続に異議を唱えたもので、大きな騒動となります。

 結果、幸道が第3代藩主となったもののまだ2歳という幼少であったため、信之が復帰して藩政をみたとされています。

 しかし同年の10月17日に、死去。享年93。

 「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」

 辞世として残されている句です。

真田信之の逸話

 ・信之はかなり長身な人物であったようで、着用されていたとされる着物などから推測するに、身長は185cmはあったようで、当時としてはかなり大柄な人物であったことが窺えます。

 ・温厚な人物であるとされる一方、戦場では先陣を切って突き進む、猛将でもあったようです。

 ・非常に長命であったものの、健康を害していなかったわけではなく、40代以降は病に臥せっていることも多かったとされています。

 ・前田利益とは懇意であったとされています。

 ・石田三成との交流は多く、また親しかったとされている信之であったものの、関ヶ原の戦いにおける三成の決起の際には予想に反して東軍につくことになりました。

 ・上田藩から松代藩に移封になった際、それに不服で重要書類を焼き捨て、さらには上田城の植木や灯篭も全て持ち去った、といわれています。しかしこれは出典のはっきりしない言い伝えであり、実際には事実ではなかった、と考えられているようです。

 ・詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女として知られる、小野お通と親交があったとされています。

 ・名君であったとされ、信之が死去した際には家臣から領民に至るまで嘆き悲しみ、出家する者が続出したともいわれています。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
真田信之  84  69  86  83

 シリーズによっては凡庸な能力値だったのですが、創造ではかなり評価されているようで、高スペック。しかもバランスがいいですね。
 どうしても弟の信繁ばかりが評価され、相対的にダメだしされてきた信之ですが、ここにきて風向きが変わってきたようです。
 ちなみに各能力値の合計値では信繁よりも上だったりします。総合的にはお兄ちゃん、勝利!

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