真田昌幸 ~表裏比興の者

真田昌幸 ~表裏比興の者

 真田幸隆の三男。幸隆は戸石崩れと呼ばれる武田氏と村上氏の戦いで、武田信玄が大敗を喫するわけですが、幸隆は後にこれを調略によって一日で攻略したことで知られる人物ですね。

 その三男として生まれた昌幸は、長篠の戦いで兄二人が相次いで没したため、真田家の家督を継ぐことになった人物です。真田信之、信繁の父でもあります。
 戦国時代において、謀将として有名です。

武田信玄の家臣として

 7歳の時、武田信玄の奥近習衆になりました。奥近習衆とは信玄の側近であり、将来の幹部候補として活動した者のことです。

 真田家の三男ということもあり、この時点で昌幸に家督を相続する権利はありませんでした。そのため武藤家の養子となって、武藤喜兵衛とこの頃名乗っていたました。

 1561年に初陣。いわゆる第四次川中島の戦いです。何回か行われた川中島の戦いで、もっとも激戦だった、あの有名な戦いです。
 もっともこれについてははっきりとしているわけではなく、ただすでに15歳であったことから、出陣していた可能性もあったとのことです。

 1564年頃に、妻である山手殿を迎えています。この人物は公家の菊亭晴季の娘とされているのですが、どうやら眉唾のようで、『真田丸』でもそんな描写がありましたね。

 1566年頃には武藤家を継ぎ、武田の重臣に準じる地位にあったようです。

 その後1569年の三増峠の戦いや、1572年の西上作戦にも参加。かの三方ヶ原の戦いにも参陣していたようです。徳川家康との因縁は、このあたりからあったのかもしれませんね。

 1573年に主君であった武田信玄が死去すると、その息子武田勝頼に仕えることになります。しかし長篠の戦いで兄信綱と次兄昌輝が討ち死。これによって昌幸は真田の姓に戻り、真田家を相続することになりました。
 ちなみに昌幸も長篠の戦いに参加していたのですが、勝頼の旗本衆としていたため、戦死せずにすんだようです。

 1579年、前年に甲越同盟が成立すると、勝頼の命を受けて北条領であった沼田へと昌幸は侵攻します。この時は撤退するも、1580年に沼田攻めを再開し、これを落としました。この年に安房守に叙任します。

 1582年、織田・徳川による甲州征伐が開始。武田氏は滅亡します。大河ドラマではちょうどこのあたりから描かれましたね。
 昌幸は織田に臣従し、滝川一益の与力武将となることで、ある程度の旧領は安堵されたようです。

天正壬午の乱を生き抜く

 織田の臣下になったと思ったのも束の間で、同じ年に本能寺の変が起こり、信長が死亡。これによって旧武田領にいた織田臣下は撤退し、旧武田領は一時的な空白地となってしまいます。ここで勃発したのが天正壬午の乱で、昌幸も周辺の大大名に混じって、その旧領争奪戦に参加することになります。

 神流川の戦いで滝川一益が北条氏直に敗れると、一益もまた撤退し、昌幸は沼田城を奪回。
 その後、上杉、北条と主君を変えながら、徳川へと寝返ります。しかし徳川と北条が和睦し、沼田城がその条件として北条に返すことが約束されると、昌幸は反発して再び上杉に臣従しました。

第一次上田合戦まで

 徳川から上杉に寝返るまでの間に、昌幸は上田城を築城。また室賀正武を殺害して小県を掌握し、支配を徐々に固めていきます。

 1584年に家康は羽柴秀吉との間で小牧・長久手の戦いが起こり、翌年に和議が結ばれて家康は撤退。北条から沼田引渡しを迫れ、昌幸にそれを求めたことで、昌幸はそれを拒否して、次男の信繁を人質に出すことで上杉に従属しました。

 このことに対し、家康は7000の兵力でもって上田に侵攻。迎え撃つ昌幸は2000。世に言う第一次上田合戦です。

 昌幸は巧みな戦術でこれを撃退し、大勝利を収めます。
 天正壬午の乱の際の変わり身や、上田合戦の勝利などにより、昌幸は稀代も謀将、知将といわれるわけですね。

豊臣秀吉に仕える

 1585年に上杉の人質となっていた信繁が秀吉の人質として大坂に出仕することで、昌幸は豊臣家に臣従することで落ち着くことになりました。沼田城問題がくすぶる中、昌幸は家康の与力大名となります。

 1589年になり、沼田城問題から端を発した名胡桃城奪取事件が起きたことで、小田原征伐が始まります。れに昌幸も参加。次々に北条方の城を落としていくも、石田三成指揮下にて戦った忍城攻めでは、これを首尾していた甲斐姫に撃退され、不首尾に終わりました。

 北条氏が降伏すると、家康は関東に領地を移される一方で、昌幸は旧領を安堵。問題であった沼田は嫡男信之のものとなり、上田からは独立することになります。

 その後朝鮮出兵である文禄の役にも参加するものの、渡海することなく帰陣。その代わりに伏見城の普請を命じられました。

第二次上田合戦

 1598年に秀吉が死去し、家康の台頭と共に石田三成との対立構図が明らかになっていきます。
 そして1600年に関が原の戦いが勃発すると、石田方につき、徳川方についた嫡男信之と決別します。いわゆる犬伏の別れ、ですね。
 沼田から上田へと戻った昌幸、信繁父子は、中山道を下ってきた徳川秀忠38000を相手に、再び2000の兵力で迎え撃ちます。第二次上田合戦です。

 多勢に無勢な状況で、昌幸は交渉を利用しつつ篭城戦をとって時間を稼ぎ、また一方で出陣して相手を翻弄し、徳川方は散々に惨敗して一旦近くの小諸に撤退してしまうほどでした。

 結局その後、秀忠は家康より上洛の命令を受け、上田攻略を諦めることになります。よくこの戦いによって秀忠は関が原の戦いに間に合わなかったとされていますが、実際には家康からの使者が利根川の増水によって到着が遅れ、それが原因となって遅参となったので、上田合戦は直接関係は無いんですね。

 上田合戦には勝利した昌幸でしたが、関が原の戦いで三成が敗れ、西軍敗北が確定すると、昌幸もまた上田城の開城に応じ、降伏しました。

高野山への蟄居とその最期

 西軍敗北を受けて、討ち死に覚悟で篭城するつもりだった昌幸でしたが、徳川方についた信之やその舅である本多忠勝の助命嘆願が功を奏し、命は助けられることになりました。結果、高野山へと蟄居となり、旧領は信之が引き継いで、真田家を存続させることになります。

 配流は高野山から九度山へと変わり、そこで10年ほど流人生活を送ることになりますが、これは昌幸の気力を萎えさせるのに十分な仕置きだったようです。

 結局最期まで家康に赦されることなく、1611年(慶長16年)に、九度山にて病死します。享年65。

 死後、信之は昌幸の葬儀を幕府に願い
出ようとするも、許可されませんでした。死してなお、赦されなかったことが伺えます。

 また後に起きる大坂の陣に真田が入城した知らせが家康に届くと、親か子か、と尋ねたそうで、この時昌幸の死は伝わっていたはずですが、信じられてなかったことを伺わせます。しかもその時の家康の手は震えていたそうで、昌幸ではなく信繁であると知って、安堵したとか。それほどまでに家康に恐れられていたわけですね。
 しかしその昌幸が遺した信繁(真田幸村)によって、家康は一矢報いられることになります。

 ともあれ昌幸と家康は相容れぬ関係であり、家康にとっては天敵だったことは間違いないでしょう。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
真田昌幸  94  88  98  83

 優秀な真田一族の中でも特に優秀な能力値。まったく隙がないですねえ。あの家康を翻弄しただけのことはあります。

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