お田鶴の方 ~今川家にいた女傑、もう一人のおんな城主

お田鶴の方 ~今川家にいた女傑、もう一人のおんな城主

鋏具に雁金 お田鶴の方とは、飯尾連竜の妻であり、夫亡き後曳馬城をよく守り、殉じた女性として知られている人物です。椿姫とも呼ばれていたそうです。

 おんな城主としては井伊直虎がよく知られていますが、わずかな期間とはいえ、お田鶴の方もそう呼ばれるべき人物であったといえるでしょう。

 お田鶴の方(おたづのかた)
 生年  1550年(天文19年)
 没年  1568年(永禄11年)
 親   父:鵜殿長持もしくは小笠原鎮実
 親   母:今川義元の義妹
 兄弟  松井宗親室 連竜
 夫   飯尾連竜

夫・飯尾連竜の謀殺

 1550年に誕生。
 父親は今川家家臣であった鵜殿長持。また小原鎮実が父親であるという説もあるそうです。
 母親は今川義元の義妹。
 また徳川家康の正室である築山御前とは、母同士が義理の姉妹にあたります。

 1564年、夫・飯尾連竜が徳川に内通し、主君・今川氏真はこれを知って新野親矩らに曳馬城攻めをさせるも、連竜はこれをよく守って曳馬城攻略に失敗します。
 その後和睦するものの、連竜は氏真の罠にかかって駿府にて切腹させられてしまいます。

 この事件により、城主を失った曳馬城において、亡き夫・連竜に成り代わり、お田鶴の方が曳馬城主となりました。

 そして1568年になると、武田信玄による駿河侵攻が始まります。
 これに呼応した徳川家康も三河より侵攻。曳馬城に迫りました。

家康と戦う

 家康はお田鶴の方に対し、曳馬城を開城すれば夫の領地をそのまま引き渡すと、説得します。
 それに対してお田鶴の方は、自分は女といえども武士に家に仕える者であり、おめおめと城を開きて降参するのは自分の志ではない、と言ってこれを拒否。
 家康は怒り、曳馬城攻めを開始します。

 飯尾方は奮戦し、徳川方にも被害は出たものの、城兵も残らず討死を遂げました。

 またこの戦いで落城寸前に、お田鶴の方は鎧を身につけ薙刀を振るい、侍女17名と共に門を開けて敵中に突撃し、全滅したとされています。
 これを聞いた家康は、お田鶴の方のことを大いに惜しんだそうです。

お田鶴の方の逸話

 この他にも、『武徳編年集成』といった史料などには、夫ともに駿府に呼び出された際に、城内において氏真の手の者に襲われ、お田鶴の方は薙刀を振るい今川方約10名を切り伏せるという無双振りの活躍をみせるも、最後は討ち取られたとされています。

 その最期の活躍をみる限り、武家に嫁いだ妻として、武勇にも優れていた人物であったようです。
 後世において、その武勇は女傑として知られている巴御前や板額御前にも劣らず、またその節操は細川夫人(細川ガラシャ)にも勝っていると、評価されています。

 『井伊家伝記』などにおいては、井伊直平を毒殺したなどの逸話も残っているようです。

 また椿姫という名前は、その死を哀れんだ築山御前が植えた椿の花に由来しているといわれています。

 最期に戦うことになった徳川家康ですが、その家康が人質時代に一目惚れした初恋の人物がお田鶴の方であったと、そんな逸話も残っているようです。

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