大坂の陣 ~冬の陣から夏の陣へ、豊臣家滅亡と元和偃武

大坂の陣 ~冬の陣から夏の陣へ、豊臣家滅亡と元和偃武

大坂夏の陣
『大坂夏の陣図屏風』

 大坂の陣とは、1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)に大坂の豊臣家と江戸幕府の間で行われた一連の合戦のことをいい、大坂の役とも呼ばれています。
 該当期間中に和議を挟んでおり、大きく二回に分けて行われたため、それぞれを大坂冬の陣、大坂夏の陣としても知られています。

 大坂の陣(おおさかのじん)
 年月日  1614年(慶長19年11月)
      ~1615年(慶長20年5月)
 場所   摂津国 河内国 和泉国
 交戦勢力 豊臣軍 対 江戸幕府軍
 指導者  豊臣軍:豊臣秀頼
      江戸幕府軍:徳川家康・徳川秀忠
 戦力   豊臣軍:冬の陣 90,000
      豊臣軍:夏の陣 55,000
      江戸幕府軍:冬の陣 200,000
      江戸幕府軍:夏の陣 165,000
 結果   豊臣家の滅亡

大坂の陣 主要関係人物

豊臣家及び譜代家臣

 ・豊臣秀頼…太閤・豊臣秀吉の三男。摂河泉65万石の大名。大坂城城主。大坂の陣では出馬することなく落城。自害して豊臣家は滅亡する。

 ・淀殿(茶々)…秀吉の側室であり秀頼の母親。関ヶ原の戦い以後、大坂城を守るも後に大坂の陣が勃発し、大坂城落城と共に秀頼らと自害する。

 ・大蔵卿局…淀殿や秀頼の乳母。大野三兄弟の母親。大坂城にて権勢を振るう。大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件において、徳川家康への使者として派遣される。大坂城落城の際は、秀頼や淀殿に殉じて自害。

 ・大野治長…豊臣家家臣。片桐且元の追放後、豊臣家を主導。大坂の陣では自身の切腹を条件に秀頼・淀殿の助命嘆願を行うも叶わずに、主君に殉じて自害する。

 ・大野治房…豊臣家家臣。大野治長の弟。大坂の陣において、主戦派の中心人物。郡山城の戦い及び樫井の戦いなどに参加。大坂城落城の際は落ち延び、後に京で捕縛されて斬首された。

 ・大野治胤…豊臣家家臣。大野治長・治房の弟。冬の陣では野田・福島の戦いにおいて敗北。橙武者と罵られる。大坂城落城の際には脱出するも捕縛され、火あぶりにされた。

 ・木村重成…豊臣家家臣。秀頼の元・小姓。秀頼の信任厚く、大坂の陣では主戦派となり、冬の陣では今福の戦いや真田丸の戦いに参加。夏の陣では八尾・若江の戦いのうち、若江方面で戦い、戦死。

 ・渡辺糺…豊臣家家臣。秀頼の槍の指南役。冬の陣では鴫野の戦いにて敗退。夏の陣では真田信繁の寄騎となり、道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いにて奮戦した。大坂城落城の際には自害して果てる。

 ・薄田兼相…豊臣家家臣。冬の陣では博労淵の戦いにおいて砦を失陥し、橙武者と罵られる。夏の陣の道明寺の戦いでは到着が遅れ、後藤又兵衛が戦死。陣頭指揮を執り、奮戦するも討死した。

 ・速水守久…豊臣家家臣。七手組筆頭。秀頼正室・千姫の教育係。内通を疑われた片桐且元らの調停に尽力。冬の陣では鴫野の戦いにおいて奮戦。天王寺・岡山の戦いでは活躍するも敗退。大坂城落城の際は千姫を徳川屋敷に送り届けた。その後、秀頼の自害に際し介錯(毛利勝永ともいわれる)し、殉死する。

 ・織田長益…豊臣家家臣。豊臣家の穏健派として豊臣家を支える。冬の陣の後に和睦を締結させるも、夏の陣を前に大坂城を退去する。

大坂牢人衆

 ・真田信繁大坂城五人衆の一人。冬の陣においては真田丸の戦いで幕府方を撃退する。夏の陣では道明寺の戦いで伊達勢を撃退。天王寺口の戦いでは家康を追い詰めるもの及ばず、討死する。

 ・毛利勝永…大坂城五人衆の一人。天王寺口の戦いでは本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を討ち取り、幕府方を混乱させる大活躍をみせる。大坂城落城に際し、秀頼の介錯を務め、その後自害した。

 ・後藤又兵衛…大坂城五人衆の一人。冬の陣では今福方面を守備。夏の陣では道明寺の戦いで孤軍奮闘し、討死した。

 ・長宗我部盛親…大坂城五人衆の一人。冬の陣では真田丸の戦いに参加。夏の陣では八尾の戦いにて藤堂勢を破る活躍をする。大坂城落城に際しては脱出するも後に捕縛され、京の六条河原で斬られた。

 ・明石全登…大坂城五人衆の一人。夏の陣では道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いでは別働隊を指揮するも、友軍の壊滅に伴い戦場から離脱した。

 ・真田幸昌…真田信繁の嫡男。夏の陣で道明寺の戦いに参加するものの負傷。大坂城落城の際は速水守久に脱出を勧められるも拒否し、秀頼の自害に殉じた。

 ・大谷吉治大谷吉継の嫡男。真田信繁の義弟。天王寺・岡山の戦いに参加し、討死する。

 ・塙直之…牢人衆の一人。大野治房に属して戦った。本町橋の夜戦では功を上げるも、樫井の戦いにおいて戦死する。

 ・南条元忠…牢人衆の一人。冬の陣において、藤堂高虎の誘いを受けて幕府方に寝返ろうとするも見破られ、切腹した。


江戸幕府方

 ・徳川家康…江戸幕府の大御所。大坂の陣をもって、豊臣家を滅亡させる。

 ・徳川秀忠…江戸幕府の征夷大将軍。家康の三男。関ヶ原遅参の汚名を返上すべく、豊臣方への強攻策を主張したともいわれる。しかし大坂の陣において、名誉挽回をする活躍はできなかった。

 ・松平忠直…越前75万石の大名。家康の孫。冬の陣では用兵の失敗を家康に責められ、夏の陣においては真田信繁を討ち取り、大坂城一番乗りを果たすなど戦功を上げた。

 ・松平忠明…家康の養子。冬の陣では河内口方面の大将を務める。和睦の際には大坂城の外堀・内堀の埋め立て奉行を担当。夏の陣の道明寺の戦いでは三番手の大将となる。戦後、摂津大坂藩10万石を与えられ、戦災復興に努めた。

 ・水野勝成…夏の陣において、大和方面軍の先鋒大将を務める。道明寺の戦いでは一番槍を上げ、後藤又兵衛を敗死させる。天王寺口の戦いでは茶臼山を落とし、真田勢を壊滅させた。大坂の陣での論功行賞では戦功第二となる。

 ・伊達政宗…伊達氏17代当主。夏の陣においては道明寺の戦いに参加。後藤勢を破るも、誉田の戦いにおいては真田信繁の反撃を受け、後退した。大坂の陣において、水野家家中の者を味方討ちし、対して水野勝成は伊達勢を斬り殺し返している。また天王寺口の戦いにおいて、神保勢を味方討ちし全滅させた。

 ・前田利常…前田家三代当主。冬の陣の真田丸の戦いでは功を焦り、大敗北を喫する。夏の陣では大野治房勢と戦い、勝利した。

 ・藤堂高虎…伊勢津藩の初代藩主。夏の陣においては河内方面の先鋒となり、八尾にて長宗我部盛親と戦い、一族に多大な犠牲をだしたが、その功によって戦後、伊勢5万石を加増された。

 ・本多忠朝…上総大多喜藩2代藩主。冬の陣では酒を飲み不覚をとって敗退。夏の陣では天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永によって討ち取られた。

 ・浅野長晟…紀伊和歌山藩の第2代藩主。夏の陣の樫井の戦いでは塙直之らを討ち、功績を挙げた。その後、大坂の陣と連動して発生した紀州一揆の鎮圧にあたる。

 ・井伊直孝…近江彦根藩第2代藩主。冬の陣では真田丸の戦いにおいて大敗北を喫する。夏の陣では八尾・若江の戦いに参加し、木村重成を討ち取り雪辱する。

 ・片倉重長…伊達家家臣。夏の陣においては伊達政宗に従い、道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛を討ち取る戦功を上げる。戦後、真田信繁の娘である阿梅を側室とした。

 ・片桐且元…豊臣家家臣。方広寺鐘銘事件により、徳川方へと転じる。冬に陣においては大坂城に対して砲撃戦を実施。和議に持ち込ませることになる。

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開戦への経緯

斜陽の大坂城
 徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利したことで実権を握り、戦後処理によって豊臣家は65万石の大名に転落します。

 1603年には家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開きました。
 以後、新たな政権作りに励んでいくことになります。

 しかしその新政権にあって、豊臣家は徳川家の主君筋にあたることもあって別格であり、その扱いについて家康は考えていくようになったとされています。

 1605年には将軍職を息子である秀忠に譲ったことで、天下に君臨するのは豊臣家ではなく徳川家であると知らしめていくことになります。

 1611年に行われた豊臣秀頼と徳川家康の会見である二条城の会見以降、浅野長政、加藤清正、池田輝政、前田利長などが死去していき、孤立を深めていった豊臣家は、牢人や兵糧を集めだし、幕府への対決姿勢を進めていくことになります。

 一方の幕府側も、大砲などの勢作をし、戦の準備を進めていました。

 そして1614年に起こった方広寺鐘銘事件によって両者の対立は決定的となり、豊臣家の家老である片桐且元が奔走するものの、結果的に且元は裏切り者扱いされるようになったことで、大坂城を退去します。このことが家康の豊臣家攻撃に口実になりました。

 家康は諸大名に出兵を命じ、大坂の冬の陣が始まることになります。

豊臣方の動向

 1614年11月3日(慶長19年10月2日)、豊臣家は全国の大名や牢人に対し、檄を飛ばして戦争準備を始めます。しかし大名の中に豊臣家に参じる者は無く、集ったのは浪人衆約10万でした。

 その牢人衆の中核を為したのが大坂城五人衆と呼ばれる五人で、真田信繁(幸村)、毛利勝永、後藤基次(又兵衛)、長宗我部盛親、明石全登といった面々でした。

 豊臣方では迎撃派と籠城派に意見が分かれていましたが、大坂城に籠城し、迎え撃つ作戦がとられることになります。

幕府方の動向

 慶長19年10月11日、家康は駿府を出陣。23日には二条城に入り、同日には徳川秀忠が江戸を出陣します。

 幕府方の兵力は約20万であったとされます。

 11月15日、家康は二条城を立ち、18日には茶臼山に布陣しました。

大坂冬の陣

木津川口の戦い

 慶長19年11月19日に行われた、大坂冬の陣の緒戦。
 幕府方の蜂須賀至鎮がこれを攻略し、守将であった明石全登が不在だったこともあり、木津川口砦は陥落しました。

鴫野の戦い

 慶長19年11月26日に行われた戦い。
 幕府方・上杉景勝が攻め、守将である井上頼次が討死します。大野治長が来援し、上杉勢に対して反撃するも、撃退され、幕府軍によって鴫野は占拠されました。

今福の戦い

 慶長19年11月26日に行われた戦い。
 幕府方は今福に付城を築くために、佐竹義宣が今福を攻め、豊臣方の矢野正倫、飯田家貞は戦死。
 その後、木村重成が来援し、膠着状態となりました。そこに後藤又兵衛が救援に駆けつけ、佐竹勢は押し戻されます。
 しかし上杉勢が援軍として駆けつけたこともあり、豊臣方は撤退。引き分けとなりました。

博労淵の戦い

 慶長19年11月29日に行われた戦い。
 木津川沿岸の守備のために築かれた砦を巡っての戦いで、豊臣方の守将・薄田兼相が不在だっために砦は陥落。代わりに留守を務めていた平子正貞は討死してしまいます。

野田・福島の戦い

 慶長19年11月29日に行われた戦い。
 豊臣方は天満川と木津川の合流付近に水軍を停泊させ、そこに面した野田・福島地域を大野治胤が守備していましたが、幕府方の九鬼守隆らの襲撃に遭い、豊臣方は逃亡。野田・福島地域は幕府方に占拠されました。

真田丸の戦い

 慶長19年12月4日に行われた戦い。
 各砦を落とされた豊臣方は大坂城に撤退。幕府方は徐々に包囲を狭めていくことになります。

 この包囲戦の最中に起こったのが真田丸の戦いで、大坂城の出城として築かれた真田丸だけでなく、大坂城南側全面で戦いが行われました。
 守将である真田信繁は、真田丸全面に布陣した幕府方・前田勢を挑発し攻撃を仕掛けさせ、これを撃退して幕府方に大損害を与えました。

 この前日に豊臣方の南条元忠の裏切りが発覚し、元忠は城内で切腹。
 この内応を利用し、幕府方の攻撃を強める要因にもなりました。

大坂城砲撃戦

 真田丸の戦いに敗北した幕府方は、大坂城への大砲射撃による攻撃を本格化させます。
 大筒100門により日々砲撃が続けられ、本丸への攻撃が淀殿の侍女8名に命中し死亡したことで、和議へと持ち込まれていくことになります。

和睦から再戦へ

 豊臣方の織田長益(有楽斎)により、和平交渉が随時行われ、豊臣方はこれに応じることになります。
 和議は幕府方の本多正純、阿茶局と、常高院の間で行われ、合意。これによって大坂城砲撃は中止されました。

 この和議の条件により、大坂城の堀は埋め立てられ、真田丸も破却されることになります。
 これによって大坂城は丸裸と成り、完全に無防備な状態となりました。

 幕府軍は撤退し、家康は駿府に、秀忠は伏見に戻ります。

 しかし1615年4月12日(慶長20年3月15日)に、大坂において牢人の狼藉や城の復旧など、不穏な動きがあると京都所司代・板倉勝重より報告がもたらされ、幕府方はこれに対し、豊臣方に牢人の解雇や豊臣家の移封を要求します。

 交渉は続けられるものについに決裂し、再度の開戦が必至となったことで、豊臣方は戦準備に着手。
 しかし勝利の見込みなしとされ牢人の数は減り、戦力は冬の陣の比べて減ることになります。

 大坂城が無防備になったことで籠城戦は不可能となり、豊臣方は野戦での迎撃を選択せざるを得ませんでした。

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大坂夏の陣

樫井の戦い

 慶長20年4月29日に行われた戦い。
 大坂夏の陣の緒戦であり、豊臣方・大野治房を主将に幕府方の紀伊の浅野長晟への攻撃を仕掛け、樫井にて豊臣方先鋒が壊滅し、塙直之や淡輪重政が戦死し、豊臣方は敗北します。

道明寺の戦い

 慶長20年5月6日に行われた戦い。
 幕府方大和方面軍に対し、豊臣方が道明寺にて迎撃します。しかし先行した後藤又兵衛勢が孤立し、孤軍奮闘の上、又兵衛は討死しました。

 遅参した薄田兼相も奮戦及ばず戦死。

 その後、さらに遅れて到着した真田・毛利勢と伊達勢が戦い、伊達勢を後退させることに成功するも、豊臣方も八尾・若江での敗戦を受けて大坂城に撤退しました。

八尾若江の戦い

 慶長20年5月6日に行われた戦い。
 幕府方河内方面軍に対し、木村重成、長宗我部盛親が迎撃。長宗我部勢は藤堂勢を撃退し勝利するも、後退中に壊滅。木村勢は井伊勢と戦い、重成は討死し、八尾・若江の戦いに敗北します。

天王寺・岡山の戦い

 慶長20年5月7日に行われた戦い。
 大坂の陣における最終決戦。

 最大の激戦であり、一時徳川家康も窮地に追い込まれるなど豊臣方は奮戦しましたが、結果的に豊臣勢は壊滅。真田信繁らも討死します。
 幕府方でも大名や将に多くの死傷者が出た激戦でした。

大坂城の落城

 幕府方・松平忠直勢により、真田勢は壊滅させられ、大坂城一番乗りを果たし、それに続いて幕府軍は大坂城に殺到。
 火の手が上がり、5月7日深夜には大坂城は陥落しました。

 豊臣秀頼と淀殿は自害。

 大野治長らの家臣もそれに殉じ、自害したとされています。

元和偃武

 大坂城落城に伴い、豊臣家は滅亡しました。

 秀頼の遺児であった国松は捕縛されて処刑されます。
 娘の天秀院は助命され、正保2年2月7日(1645年3月4日)まで生きました。

 荒廃した大坂城には松平忠明が入城して復興に尽力。
 その後、大坂は幕府の直轄領となりました。

 炎上した大坂城の跡に、幕府は再び大坂城を再建します。

 この大坂の陣をもって応仁の乱より続いた戦闘が終わりを告げ、これを元和偃武と称しました。
 時代は徳川政権下による、平和な時代へと移り変わっていくことになります。

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