岡部元信 ~織田・徳川家と戦い続けた、今川家の名将

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 岡部元信とは戦国時代の武将として今川家に仕え、今川家が滅亡した後は、武田家に仕えました。
 桶狭間にて討ち取られた主君・今川義元の首を持ち帰ったことで知られる人物です。

 岡部元信(おかべ もとのぶ)
 生年  不詳
 没年  1581年(天正9年)
 別名  長教 真幸 元綱 五郎兵衛
 主君  今川義元今川氏真
     ⇒武田信玄武田勝頼
 親   父:岡部親綱
 子   真堯 元昌 娘(土屋昌恒室)

桶狭間の戦いと義元の首

 岡部元信の生年は分かっていません。

 父親は岡部親綱。
 父・親綱は今川氏の重臣であり、花倉の乱で活躍して主君・今川義元の家督相続に貢献した人物です。

 その親綱の子として生まれた元信もまた、戦で武功を挙げ、遠江や三河平定に貢献しました。

 1547年(天文17年)の第2次小豆坂の戦いにおいては、織田軍を相手に今川の勝利に貢献。

 1549年(天文18年)に行われた安祥城の戦いでも戦功を挙げ、尾張の鳴海城を預かることになります。

 そして1560年(永禄6年)、今川義元は大軍を擁して尾張に侵攻。
 元信は鳴海城を拠点に織田家と対峙しました。

 しかしこの尾張侵攻において、織田信長の急襲を受けた今川義元は討死してしまいます。
 この桶狭間の戦いの敗北によって、今川勢が総崩れになるなか、迫る織田軍を相手に元信は頑強に抵抗し、信長が繰り出した織田方を全て撃退して今川の意地を見せ付けました。

 鳴海城を最後まで守りきった元信は、織田方に奪われた主君・義元の首と引き換えに鳴海城を開城することで交渉し、その忠義に感じ入った信長は義元の首を丁重に棺に納めて送り届けさせます。

 これを受け、元信は義元の首を輿に乗せ、堂々と鳴海城から退去しました。

 元信はそのまま駿府へと戻るのは戦功も無く良しとせず、帰路にあった刈谷城を手勢を率いて攻撃し、刈谷城主であった水野信近を討ち取ったといわれています。

 敗色の中、織田に対して一矢報いた元信の奮戦に対し、義元の跡を継いだ今川氏真は喜んで、忠功比類無しと褒め称え、所領の加増をしました。

 しかし義元が死去したあとの今川家の衰退は著しく、1568年(永禄11年)に武田信玄の駿河侵攻を受け、今川家は滅亡し、これによって元信は降伏して以後、信玄に仕えたとされています。

高天神城の戦い

 1573年(元亀4年)に武田信玄が死去。
 これにより元信は、跡を継いだ武田勝頼に仕えます。

 勝頼は1574年(天正2年)、25,000人と号する大軍を率い、徳川方の重要拠点であった高天神城を陥落させると、その城主を元信が任せられました。

 しかし翌1575年(天正3年)に、勝頼はは織田・徳川連合軍を相手に長篠の戦いで大敗を喫します。

 これによって徳川家康は遠江侵攻を活発に行い、しかし元信はその侵攻を幾たびも阻みました。
 苦戦を強いられた家康は元信の篭る高天神城攻略のため、力技は無理とみて兵糧攻めに持ち込みます。

 元信は勝頼に援軍を求めたものの、援軍は無く、やがて兵糧はつき、将兵は草木を食べて飢えを凌ぎました。

 覚悟を決めた元信は、城兵を率いて徳川方の大久保忠世の陣に突撃を敢行。
 城兵ともども玉砕しました。

 これを迎え撃ったのは忠世の弟である大久保忠教で、その家臣である本多主水は先頭に立った元信相手に勝負を挑み、これを討ち取ったといわれています。

 この時の元信の年齢は70歳くらいといわれており、織田・徳川と戦い続けた人生でした。

 家康は自身を苦しめた元信を討ち取ったことを喜び、その首級を信長のもとに送ったと伝わっています。

岡部元信 関係年表

 1548年 第2次小豆坂の戦いで戦功を挙げる。
 1549年 安祥城の戦いでの戦功により、鳴海城を預かる。
 1560年 桶狭間の戦い。義元戦死。
     義元の首級と鳴海城を交換。
     刈谷城を攻めて水野信近を討ち取る。
 1568年 今川家滅亡。武田信玄に仕える。
 1573年 武田信玄死去。勝頼に仕える。
 1574年 高天神城の戦い。城主となる。
 1575年 長篠の戦い。武田軍大敗。
 1580年 第2次高天神城の戦い。元信討死。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
岡部元信  80  74  71  36

 知友兼備の名将といった能力値。
 今川家では軍事面で活躍してくれる有能な武将です。 

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