荻原昌勝 ~武田信玄を教育した、武田信虎の軍師

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 荻原昌勝とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣です。
 一般的ではないものの、武田二十四将の一人として数えるという説もある人物です。

 荻原昌勝(おぎわら まさかつ)
 生年  1461年(寛正元年)?
 没年  1535年(天文4年10月9日)
 別名  常陸介
 主君  武田信昌⇒武田信縄⇒武田信虎
 親   荻原備中守?

目次

概要

 荻原昌勝の生年は不確かですが、1461年(寛正元年)頃に生まれたと考えられています。

 父親は『甲斐国志』によると荻原備中守であるとされていますが、誤伝であり、世代が逆である可能性も指摘されているようです。

 昌勝の名は、主君であった武田信昌より一字を拝領したものであるとされています。

 『甲陽軍鑑』に記述されているところによると、武田信虎に弓術を教えたとされ、その子であった武田晴信(武田信玄)にも、弓矢の物語を聞かせたと伝わっており、昌勝は弓矢に優れた人物であったようです。

 武田信虎が家督を継承し、武田家当主となると、昌勝は家老に任じられました。

 武田信玄が生まれたとされる1521年(大永元年)に、駿河今川氏の家臣・福島正成率いる軍勢が甲府へと侵攻。

 この時、昌勝は信虎の軍師として出陣し、策を練ったとされており、飯田河原の戦いで今川軍を撃退することに成功しています。

 その後、晩年には武田晴信の教育もしたとされています。

 昌勝は1535年(天文4年10月9日)に、享年75にて死去。

 昌勝の荻原氏はのちの江戸時代において、江戸幕府将軍である徳川綱吉に旗本として仕えた荻原重秀がおり、勘定奉行を務め、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られています。

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