小幡昌盛 ~武田信玄の旗本を望んだ、武田二十四将の一人

小幡昌盛 ~武田信玄の旗本を望んだ、武田二十四将の一人

小幡昌盛

五枚根笹 小幡昌盛とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣です。
 武田信玄及び、その子の武田勝頼の二代に渡って仕えました。
 父は鬼虎と呼ばれた小畠虎盛として知られています。

 小幡昌盛 (おばた まさもり)
 生年  1534年(天文3年)
 没年  1582年(天正10年3月6日)
 別名  通称:又兵衛 豊後守
     仮名:孫十郎(孫次郎?)
 家紋  五枚根笹
 主君  武田信玄⇒武田勝頼
 親   父:小畠虎盛
 妻   原虎胤の娘
 子   昌忠 在直 景憲 昌重

海津城番

 1534年(天文3年)に、小畠虎盛の次男として誕生。

 出自である小畠氏は、もともと遠江国勝間田出身であり、祖父・小畠日浄や父・虎盛の代に甲斐国へと赴き、武田信虎の家臣として召抱えられました。

 その後、父・虎盛は功を挙げ、対上杉氏最前線である海津城を守る高坂昌信の副将として海津城番となり、昌信を補佐したとされています。

 昌盛もまた、父と共に海津城にありました。

 虎盛が死去するとその家督を継ぎ、高坂昌信の補佐を引き続き命じられることになります。

 正室は鬼美濃と称された原虎胤の娘であり、同じように鬼虎と称された父・虎盛の子として、「鬼の子には鬼の娘が相応しい」という主君・武田信玄の評価から、そのように取り計らわれたとも伝わっています。

 そのような逸話が残っていることや、実際に1561年(永禄4年)に勃発した第4次川中島の戦いで活躍したことや、内藤昌豊の配下として西上野の総横目を務めたことなどもあって、父に劣らぬ武勇の持ち主であったようです。

信玄の旗本として

 虎盛が死去し、家督を継いだ昌盛でしたが、父が務めていた海津城副将の地位をそのまま推されるものの、これを固辞し、信玄の近衛ともいえる旗本の地位を望んだとされています。

 そのために昌盛は訴訟を起こしたとされ、これは信玄の怒りを買ってしまい、甲府妙音寺に蟄居されて切腹まで命じられました。

 しかし諏訪勝頼や土屋昌続らの助命嘆願もあって赦され、信玄麾下の足軽大将になることができたとされています。

武田氏滅亡

 1582年(天正10年)、織田氏と徳川氏による連合軍は武田領に侵攻し、いわゆる甲州征伐が勃発しますが、この時すでに病床にあった昌盛は参戦することは叶わず、敗戦して落ち延びる武田勝頼に甲斐善光寺にて暇乞いをしたのち、病死しました。享年49。

 この暇乞いについての記録から、昌盛が侵されて病魔は地方病 (日本住血吸虫症)ではないかとされており、この病は長い間その原因が分からずに多大な被害を与えたとされる感染症であり、当時の甲斐国においてすでに蔓延していた可能性を示すものとしても、注目されているといわれています。

小畠姓と小幡姓

 父・虎盛はまではその姓は「小畠」を名乗っていましたが、昌盛の代より信玄により許されて「小幡」姓を名乗るようになりました。

 上野国の小幡氏と小畠氏は、遡れば同族という系図も存在するようですが、確たる証拠はなく、同族・もしくは別系統である、という二つの説があるようです。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
小畠虎盛  58  68  66  60

 特段秀でた能力も無いですが、劣った能力もないバランスのとれた武将、ですね。
 鬼の子にしては、少々物足りなくもありますが、旗本として考えるならばこれくらい万能型の方がいいのかもしれませんね。

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