毛利勝永 ~真田を云て毛利を云わず、真田幸村に匹敵した名将

毛利勝永 ~真田を云て毛利を云わず、真田幸村に匹敵した名将

 大坂の陣といえば、真田信繁(幸村)ばかりが有名ですが、その信繁に勝るとも劣らない活躍をした人物が、毛利勝永という人物です。大坂城五人衆の一人ですね。

 戦国時代で毛利といえば、中国の雄である毛利元就とその一族が有名ですが、勝永はその血族でありません。が、あながち無関係、というわけでもないんですね。これはまた後述します。

 毛利勝永(もうり かつなが)
 生年   1578年(天正6年)
 没年  1615年(慶長20年)
 改名  森吉政⇒毛利吉政⇒毛利勝永
 別名  吉政 号:一斎
 主君  豊臣秀吉⇒豊臣秀頼
 親   父:毛利勝信
 兄弟  山内勝近
 妻    正室:安姫 継室:名称不明

出生から関ヶ原まで

秀吉家臣として

 1578年(天正6年)に、毛利勝信(森吉成)の子として生まれました。尾張、もしくは近江長浜が生誕地という二つの説があるそうです。比較的有力なのは、尾張説のようですね。

 父である勝信は豊臣秀吉に仕えており、その流れで勝永も秀吉に仕えました。
 1587年、九州を平定した秀吉によって、豊前国の一部である小倉の領主に、父勝信がなります。その際に、父が得た知行6万石のなかから1万石が、勝永に与えられます。

 ちなみにこの頃まで、勝永は森吉政という名前でした。父も森吉成といい、本来は森姓だったのです。しかし秀吉の指示によって、森姓から毛利姓に名前を変えています。この時毛利姓に改めるように命じられたのは勝永というよりはむしろ、父である勝信の方だったようです。子である勝永も、同じ流れで姓を変えることになったようですね。改名にあたっては、毛利輝元から許可を得た上で、だったようです。

 勝信との系譜は不明ながらも、同じ森姓から毛利姓に変えた人物に、毛利高政、毛利吉安などがいたりまします。

 1597年、朝鮮出兵に従軍。戦功をたてます。この時に現地で手に入れた犬を豊臣秀次に送って礼状をもらったそうですが、いったいどんな犬を送ったのやら気になるところです。

 1598年、秀吉死去。その際には形見分けとして、刀を受領しています。大河ドラマの真田丸でも、そんなシーンがありましたね。もちろん、勝永はその時は登場していませんでしたが。

関ヶ原の戦い

 1600年、関ヶ原の戦いが勃発。西軍として参加します。父親は領国である九州に戻っていたため、現地では勝永が指揮をとることになりました。特に伏見城の戦いにて戦果をあげます。しかしこの時に、家臣も多く失うことにもなりました。この時の戦功が、後で勝永を窮地に追い込みます。

 続く関が原本戦においては、安国寺恵瓊の指揮下に置かれます。しかし活躍する機会は無く、西軍敗退で関が原は終わってしまいました。

 一方の豊前国においては、好き放題やっていた黒田如水(孝高)に居城である小倉城を奪われてしまいます。大河ドラマ『軍師官兵衛』でも、関ヶ原時に官兵衛が九州で暴れていましたね。あの時にえらい目に遭っていたのが、勝永や勝信の領地だったというわけです。

 そして戦後、改易の憂き目に遭います。その際に勝永は西軍の将として、関が原本戦にこそ参加していなきあったものの、処罰される可能性がありました。
 というのは伏見城の戦いで活躍したため、東軍からみれば守将であった鳥居元忠が落城と共に自害しており、その原因の一人ともいえなくない勝永には死罪の可能性もあったようです。

 しかし以前、父勝信が伏見城普請に携わっていた徳川家康を手助けしたことがあり、その旧恩によって死罪は免れることになりました。伏見城というのは、何とも勝永にとって因縁深い城であったといえるでしょう。

 ともあれ、父と共に勝永は加藤清正や山内一豊などに預けられることになりました。特に山内家では手厚く迎えられたそうです。以降、高知城の北にある久万村にて生活する毎日となります。

 1610年、正室であった安姫が死去。勝永は出家します。一斎と号しました。
 翌年には父勝信が死去します。

大坂に向かう

土佐脱出

 1614年、豊臣と徳川の対立が濃厚になると、豊臣秀頼より勝永は招きを受けます。これに対し、勝永は土佐からの脱出を目論見ました。

 忠義のためとはいえ、罪人の身である以上、そう簡単にはいきません。特に残された家族に害が及ぶ可能性があります。勝永もまたこれに悩むことになりますが、妻子は勝永に対して家族よりも家の名誉を優先させるよう励まし、勝永は大坂入城を決断しました。

 脱出にあたり、留守を預かっていた山内康豊に対し、藩主である忠義を助けるために、その陣中(徳川方)として大坂に向かいたいと頼みます。次男である鶴千代を人質として残すともいい、康豊は了承して土佐から出ることを許すのですが、これが真っ赤な嘘偽りであり、勝永は徳川方ではなく大坂方に走ってしまいます。長男である勝家も、同行します。

 もちろんこの裏切り行為に忠義が激怒し、鶴千代や勝永の妻、その娘は軟禁されることになりました。逸話として、これを聞いた家康は勝永の行動を非難せず、逆にその妻子を保護を命じ、城内に入ったともいわれています。

 大坂城に入ると、真田信繁(幸村)・後藤基次(又兵衛)明石全登長宗我部盛親らと共に、大坂城五人衆の一人に数えられ、4万5千を兵を預かることになります。
 大坂の陣が始まり、しかし冬の陣においては目立った活躍も無いままに和議が結ばれます。勝永が活躍するのは、その後に起こった夏の陣においてでした。

道明寺の戦い

 夏の陣の一つである道明寺の戦いにおいて、勝永や信繁は後詰となって1万2千を率いて出陣するも、前隊となった後藤基次の隊のみが先に道明寺に到着。他の隊が延着していることを知り、作戦の破綻を悟った基次は単隊にて幕府軍と対峙。8時間にも及備び、孤軍奮戦激闘の末、基次は戦死し、隊も壊滅しました。

 勝永が道明寺に到着した頃にはすでに戦局は定まっており、撤収することになります。幕府軍の勝利にて、道明寺の戦いは終結しました。

 この大幅な遅参は濃霧のためであったといわれていますが、これによって基次は戦死し、このことに対して真田信繁は、豊臣の武運も尽き、この場での討死を覚悟したとされていますが、勝永はそれを諌め、慰めて、撤収を図ったとされています。

天王寺口の戦い

 そして大坂の陣、最終決戦である天王寺・岡山の戦いにおいて、兵4千をもって家康本陣の前に陣取った勝永は、戦闘開始と同時に鬼神もかくの如しという戦振りを示します。

 まず本多忠朝や小笠原秀政(秀政は重傷を負って、戦場離脱後に死亡)・小笠原忠脩親子を討ち取り、更には浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純らを次々に撃破するという無双振りで敵を蹴散らしつつ、真田隊と共に家康本陣にまで突入するという大活躍をみせました。

 あまりの猛攻振りに家康は自害をも覚悟する窮地に立たされるわけですが、このエピソードは主に真田信繁の活躍として語られることが多く、勝永の活躍はあまり語られず、後の江戸中期の文人神沢貞幹におよって「惜しい哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と記されています。

 ともあれ、この天王寺の戦いにおいて、家康の首まであと一歩というところまで迫りながら、真田隊が壊滅したことで戦線が崩壊してしまいます。その後四方からの包囲に晒され、勝永は撤退を決意。この状況下にあって撤退の指揮は優れており、藤堂勢を撃破しつつ井伊勢や細川勢の攻撃を防ぎ、無事城内に撤収することに成功します。

 翌日、秀頼の介錯(速水守久という説もあり)をした後、嫡男の勝家、弟の吉近と共に切腹し、自害して果てました。享年37。

毛利勝永 関係年表

 1578年 毛利勝信の子として生まれる。
 1587年 1万石の知行を得る。
 1587年 毛利姓に改姓。
 1588年 毛利輝元の接待役になる。
 1597年 朝鮮出兵。慶長の役にて明・朝鮮連合軍を破る。
 1598年 豊臣秀吉死去。
 1600年 伏見城の戦いで戦功をたてる。
     関ヶ原の戦いにて西軍敗北。
 1610年 正室安姫死去。剃髪して一斎と号す。
 1611年 父、勝信死去。
 1614年 土佐脱出。大坂入城。
 1615年 大坂夏の陣。天王寺口の戦い。
     大坂城落城。自害。享年37。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
毛利勝永  83  81  75  45

 知勇兼備の名将といった感ではありますが、多さの陣で同じかそれ以上の活躍をしたにしては、信繁に比較して低評価かもしれませんね。
 勝永の場合、やはり大坂の陣以外の露出が少ないことが、やはりネックなようです。

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