小少将 ~朝倉義景の側室として朝倉氏滅亡の遠因となった、傾国の美女か

小少将 ~朝倉義景の側室として朝倉氏滅亡の遠因となった、傾国の美女か

諏訪館跡庭園《小少将居館 諏訪館跡庭園》

三つ盛木瓜 小少将とは戦国時代の越前国の大名・朝倉義景の側室として知られている人物です。


 小少将(こしょうしょう)
 生年  不詳
 没年  1573年(天正元年)
 別名  諏訪殿
 親   父:斎藤兵部少輔
 兄弟  斎藤新三郎
 夫   朝倉義景
 子   愛王丸

小少将の名前

 小少将の生年は不明ですが、父親は越前朝倉氏の家臣であった、斎藤兵部少輔とされています。
 兄弟に斎藤新三郎がおり、この人物も朝倉氏に仕えていたようです。

 この小少将の名前について軍記物である『朝倉始末記』よると、「小少将」「小将」「少将」など名前の表記にゆれが見受けられます。

 これについて、一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉義景館外濠から付札木簡が出土し、そこには「少将」「少しやう」と書かれていました。そのため少将の名が正しいとされています。

 また諏訪館に住んでいたことから、「諏訪殿」とも呼ばれていたようです。

朝倉義景の側室に

 1568年(永禄11年)、朝倉義景とその側室であった小宰相(鞍谷嗣知の娘)の間に生まれた嫡男・阿君丸が早世します。

 義景には他に正室(細川晴元の娘)・継室(近衛稙家の娘)がいましたが、側室であった小宰相との間に生まれた阿君丸は初めての男子であり、早くから世継ぎとされていました。

 阿君丸の死には毒殺説や、一門内での同族争いなどがあって、それが影響したのではないかともいわれています。

 ともあれ阿君丸の死に義景が非常に落胆し、失意して政務を放棄。鬱々とした生活を送ったいたようです。

 このような状況に、家臣らが政務の停滞や跡継ぎのいないことを憂慮し、義景の悲しみを和らげるために美しい側室が必要であると考え、家臣であった斎藤兵部少輔の娘である、小少将に白羽の矢が当たりました。

傾国への道

 新たな側室となった小少将は、1570年(元亀元年)に、義景にとって次男である愛王丸を生みます。

 このことにいたく喜んだのか、義景は小少将と愛王丸を溺愛。

 しかしそれは家臣達の思いとは裏腹に、裏目に出るほど度が過ぎたもので、義景は小少将の言うがままとなって遊興に耽り、更に政務を省みなくなってしまいました。

 このような状況の中、朝倉氏は織田氏を相手に全面戦争に突入し、姉川の戦いや志賀の陣を経て、一度は窮地に陥れた織田信長武田信玄の死によって窮地を脱し、朝倉・浅井氏に対して反撃。

 そして1573年(天正元年)に刀根坂の戦いにて朝倉軍は大敗を喫し、義景は命からがら一乗谷に落ち延びます。

 しかしすでに敗色の濃い義景の元に参じる家臣はおらず、唯一出陣してきた従兄弟の朝倉景鏡は一乗谷を放棄し、景鏡が治める大野郡に退いて、再起を図ることを進言。
 小少将らもまた、義景に従って落ち延びました。

 だがこの時にはもう景鏡は織田方に内通しており、裏切りにあった義景はつに自刃。
 小少将は子の愛王丸や義景の母である光徳院らと共に捕らえられます。

 その後、織田信長の命を受けた丹羽長秀によって、南条郡帰りの里の付近で殺害されました。

 しかしこの時殺害されたことが明記されているのは、『越州軍記』によると愛王丸と光徳院のみであり、小少将の名前はありません。
 そのため殺害された可能性は高いものの、生死不明する見方もあるようです。

 またあくまで言い伝えとして、岐阜県の願興寺に義景の妾が寺の別当を頼って落ち延び、遺児を出産したというものがあります。 

 この義景の妾が小少将であったかどうかは分かっていません。

四国の小少将

 この時代において、小少将の名を持つ女性は朝倉義景の側室以外にも存在していました。

 それが四国の小少将で、絶世の美女とされていたようです。

 この人物は岡本牧西(岡本清宗)の娘とされ、細川持隆⇒三好義賢⇒篠原自遁⇒長宗我部元親と次々に夫を変えていったとされています。

 しかし最後の長宗我部元親に関していえば、年齢的に微妙であるため、同じ名前の別人ではないかとされているようです。

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