金ヶ崎城 ~三英傑が集結し、歴史の分岐点となった激戦の地

金ヶ崎城 ~三英傑が集結し、歴史の分岐点となった激戦の地

金ヶ崎城址《金ヶ崎城址》

 金ヶ崎城とはかつての越前国にあった城郭であり、戦国時代における有名な、織田信長の撤退戦の舞台になった地として知られています。

 戦国時代以外でも、南北朝時代や室町時代において、熾烈な戦いの舞台となった地でもありました。

 金ヶ崎城(かねがさきじょう)
 別名   敦賀城
 城郭構造 山城
 築城年  平安時代
 廃城年  不明
 築城主  平通盛
 主な城主 気比氏 甲斐氏 朝倉氏
 文化財  国の史跡
 所在地  福井県敦賀市金ヶ崎町

金ヶ崎城の概説

 金ヶ崎城は現在の福井県敦賀市金ヶ崎町にある、金ヶ崎山に築かれた山城です。この金ヶ崎山は敦賀湾に突き出した形で、海抜86mほどの小高い丘ともいえる山になっています。

 平安時代である1180年(治承4年)から1185年(元暦2年)にかけて行われた争乱である治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦の際に、平家方の武将であった平通盛が、木曽義仲と戦うために築いたのが最初であるといわれています。

 本丸跡や城戸跡、堀切などが現在でも遺構として遺されています。

 またこの金ヶ崎城址の麓には金ヶ崎宮が建立されており、南北朝時代に金ヶ崎の戦いで敗死した尊良親王が祀られています。

金ヶ崎城の歴史

南北朝時代

 1336年(延元元年/建武3年5月)、北朝方の足利尊氏が南朝方に勝利して京へと入り、南朝方は比叡山へと脱出しました。
 そして1336年(延元元年/建武3年10月13日)、後醍醐天皇の皇子である恒良親王、尊良親王を奉じた新田義貞は北陸を目指し、金ヶ崎城へと入城します。

 その直後、足利方の武将で越前守護であった斯波高経の軍勢により包囲。
 しかし金ヶ崎城は守りが堅く高経は攻めあぐね、兵糧攻めを決行します。

 足利尊氏は増援として高師泰や各国の守護を派遣し、攻勢をかけました。

 これに対し、新田義貞は長男である新田義顕と二人の皇子を残して金ヶ崎城を脱出し、杣山城に救援を求めます。

 杣山城の城主であった瓜生保と義鑑坊の兄弟はこれを受諾して南朝方につき、金ヶ崎城の救援に向かいました。
 しかし敦賀郡樫曲付近にて足利方の迎撃を受け、救援を阻まれます。

 援軍の無い状況で、さらに兵糧攻めにより疲弊していた城兵は、足利方の攻撃に対して抵抗できず、次々に討死。

 覚悟を決めた城兵300と尊良親王、新田義顕は城に火を放って自害し、恒良親王は捕縛されて金ヶ崎城は落城に至りました。

 1338年(延元3年/暦応元年)には、いったん新田義貞に奪還されるも、義貞はその後討死し、越前は平定。
 越前守護代であった甲斐氏が入り、敦賀城と名乗ったといわれています。

室町時代

 1459年(長禄3年5月13日)、越前守護であった斯波氏と、守護代であった甲斐氏が対立し、いわゆる長禄合戦が勃発します。

 この時、幕命を受けた斯波義敏により金ヶ崎城は攻撃を受けましたが、金ヶ崎城の守りは堅く、斯波方は大敗。
 これによって斯波義敏が失脚するに至りました。

戦国時代

 越前は朝倉(英林)孝景の代に、下克上によって斯波氏から朝倉氏へと支配者が代わり、金ヶ崎城も朝倉氏一門のいわゆる敦賀郡司がその守備を担っていました。

 しかし朝倉義景の代になり、朝倉氏は織田氏と対立。
 1570年(元亀元年4月26日)に、織田信長は越前に侵攻を開始。
 その入口であった金ヶ崎城は織田軍に厳しく攻め立てられ、城を守備していた敦賀郡司の朝倉景恒は開城し、城を明け渡しました。

 ところが織田信長の義弟であった、近江の浅井長政が信長を裏切り離反。朝倉方につきます。

 長政は近江海津に進軍し、朝倉方も本隊が敦賀へと向かい、織田軍は挟撃されることになりました。

 これがいわゆる金ヶ崎の退き口といわれる信長の撤退戦で、信長はこの絶対絶命の窮地を脱し、京へと撤退することに成功します。

金ヶ崎城の支城・天筒山城

 金ヶ崎城のすぐ近くに、支城として天筒山城が存在しました。

天筒山《金ヶ崎城から天筒山を望む》

 この城も山城であり、金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている天筒山に建てられたもので、標高171mと、金ヶ崎城を見下ろせる位置です。

 天筒山城は戦国時代、朝倉氏と織田氏の抗争の際に織田方に攻め込まれ、金ヶ崎の戦いの皮切りとなった城でした。

 織田方の猛攻に遭い、天筒山城は陥落。
 朝倉景恒は金ヶ崎城に退いて抵抗するも衆寡敵せず開城し、金ヶ崎城も織田方の手に落ちました。

金ヶ崎城探訪記

アクセス方法

 2017年3月中旬に、金ヶ崎城へと行ってきました。

 ↓場所です。


 場所は福井県敦賀市金ヶ崎町。
 アクセス方法としましては、JR敦賀駅で降りて、ぐるっと敦賀周遊バスに乗って18分ほどの「金崎宮口」にて下車しましょう。

 駐車場がしっかりありますので自家用車でも問題なく辿り着けます。私も車で行きました。

金崎宮駐車場《金崎宮駐車場》

 駐車場からすぐのところに、金前寺というお寺があります。

金前寺《金前寺》

 このお寺は736年(天平8年)に泰澄大師が建立したもので、南北朝時代の金ヶ崎の戦いにおいては本営となった場所だそうです。

 ちなみに芭蕉も訪れたことがある場所らしく、詩歌も詠んだとか。
 
「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」

 芭蕉の句だそうです。

 それを横目に階段を登っていくことになります。

金崎宮までの階段《金崎宮までの階段》

金崎宮

 最初の階段を上り切ると、まず現れるのは金崎宮。

金崎宮《金崎宮》

 ここは南北朝時代に金ヶ崎城の戦いにて敗氏した尊良親王を、1890年(明治23年)に祭神として祀って創建されたのが始まりで、その後の1892年(明治25年)に恒良親王が合祀され、1893年(明治26年)に現在の場所に社殿が竣工されたとのことです。

 ちなみにここにはソメイヨシノが約1000本、いわゆる千本桜があり、桜の名所として知られています。
 私が行ったのは3月中旬だったので、まだつぼみも多少膨らんでいるかな、程度のもので、桜を見ることはできませんでした。

 この金崎宮を越えると、いよいよ金ヶ崎城址へと至ります。

金ヶ崎城址《金ヶ崎城址》

 階段は続くのでどんどん登っていくと、不意にわき道が現れ、そこから更に上に上ると、尊良親王が自刃したとされている陵墓見込地の石碑を見ることができます。

 この尊良親王は北朝方に包囲されている中、新田義貞の嫡男・義顕に脱出を勧められたそうですが、同胞を見捨てることはできないとして、城兵や義顕と共に自害したといわれています。
 いわゆる悲劇の地、だったわけですね。

尊良親王陵墓見込地《尊良親王陵墓見込地》

 わき道から戻り、元の道を再び登っていきます。

 しばらく登ると、その尊良親王が戦った、南北朝時代の金ヶ崎の戦いの古戦場碑が建っていました。

金ヶ崎古戦場碑《金ヶ崎古戦場碑》

 ちなみにその近くに、小さな古墳があったりもします。

 そこから更に奥に進むと、南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡であった月見御殿があり、戦国時代の武将などが月見をしたとされている場所で、この場所からは日本海や敦賀湾が一望できる非常に見晴らしの良い場所となっています。

月見御殿《月見御殿から見た日本海》

 金ヶ崎城にはわかりやすい石垣などの遺構はありませんが、登ってみれば、山城であったことがよく分かります。

 かつて太平記に書かれていたように、天然の要害であるということがよく分かりました。

 そんなに高い山ではないので、気軽に登れますよ。

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