海北綱親 ~秀吉をして、我が兵法の師であると言わしめた将

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 海北綱親とは戦国時代の武将であり、近江浅井氏の家臣です。
 赤尾清綱雨森清貞と共に浅井三将と並び称されたことでも知られています。

 海北綱親(かいほう つなちか)
 生年  1510年(永正7年)?
 没年  1573年(天正元年)?
 主君  浅井亮政⇒浅井久政⇒浅井長政
 子   海北友松

知勇兼備の将

 近江浅井氏初代である浅井亮政の代より仕え、その子の浅井久政、孫の浅井長政と、三代に渡って仕えた重臣です。

 軍奉行として活躍し、長政の代で織田信長と争うようになると、攻め寄せる木下秀吉の軍を相手に奮戦し、これを撃退し続けました。
 そのため秀吉より、「綱親こそが我が兵法の師である」 と言わしめたとされる、知勇兼備の武将として知られています。

 しかし1573年(天正元年)の小谷城の戦いにおいて、落城とともに討死したとされています。

死亡時期

 綱親は小谷城の戦いで戦死したとされている一方で、異説もあるようです。

 これより40年以上も前、浅井亮政の代において、亮政が京極家家臣である多賀貞隆を攻略した際に討死したとされており、これは綱親の嫡男が綱親と同じ名である善右衛門を名乗っていたため、混同し誤ったからではないか、と考えられています。

 小谷城の戦い以後の海北氏は、綱親の四男が帰農。

 また五男もしくは三男とされている絵師の海北友松が、海北家の再興を目指したものの秀吉に画才を認められたことで武門をさり、画業に専念しました。

 友松は海北派の始祖となり、その子の海北友雪らに受け継がれていくことになります。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
海北綱親  74  48  78  58

 知勇兼備というだけあって、統率と知略が高め。
 しかし若かりし時の秀吉とはいえ、あの秀吉を撃退したにしてはまだ評価が低いとみるべきか、妥当とみるべきか。

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