石田三成 ~大一大万大吉の理想に殉じた武将

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 石田三成といえば豊臣秀吉に仕え、豊臣政権を担った五奉行の一人であり、関ヶ原の戦いにおいて西軍を主導し、徳川家康と戦った人物として知られています。

 石田三成(いしだ みつなり)
 生年  1560年(永禄3年)
 没年  1600年(慶長5年)
 改名  佐吉(幼名)⇒三也⇒三成
 主君  豊臣秀吉⇒豊臣秀頼
 親   父:石田正継 母:瑞岳院
 妻   正室:皎月院
 兄弟  正澄
 子   重家 重成

三成の生涯

秀吉配下として

 1560年に、石田正継の次男として近江国坂田郡(現在の滋賀県長浜市)にて生まれました。幼名の佐吉という名前も、よくドラマなどで耳にしますね。

 秀吉に仕えるようになるきっかけは、織田信長が浅井朝倉を攻め滅ぼし、羽柴秀吉に長浜城を与え、その城主となった頃に、父や兄と共に仕官したとされています。三成は小姓として仕えたそうです。
 中国攻めの総司令官として秀吉が中国に赴くと、これに従軍。

 また1582年に本能寺の変が起こり、信長亡き後の後継者として秀吉が台頭していくと、三成はその側近として頭角を現していくことになります。

 1583年に起こった賤ヶ岳の戦いにおいては威力偵察を行い、大谷吉継らと共に一番槍といわれる戦功をあげました。また1584年には小牧・長久手の戦いにも従軍しています。

 文官の印象が強い三成ですが、当初は有名所の戦に参加し、そしてその最後は天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いにおける西軍指導者(総大将は毛利輝元)として采配を振るったことから、武にも十二分に縁のあった人物であるといえるでしょう。

秀吉の天下統一

 1585年に秀吉が関白に就任すると、三成は従五位下治部少輔に叙任されました。ちなみに治部というのは役所名で、少輔(次官級)というのが職階名にあたります。

 1586年に、名将・島左近を召抱えるという難事を達成します。これには秀吉も驚愕しました。三成は自分の知行の半分を与えてまで仕官を承諾させるという離れ業をし、「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と後世に謳われるほどでした。

 1587年の九州平定においては兵站担当として活躍。大軍を用いての九州平定が短期間で終えることができたのは、三成を初めとする有能な官吏の存在があったからのようです。

 1590年には小田原征伐に従軍。忍城攻めを命じられ、水攻めを行います。その時の遺構が現在も石田堤として残っています。

 三成は堺での堺奉行、また九州平定後の博多奉行、奥州仕置の後の検地奉行などを歴任し、官僚としての実績を積み上げていきました。三成の文官としての印象は、こういったことを成し遂げた手腕からできていったようです。

 そして1592年の朝鮮出兵では朝鮮に渡り、総奉行となります。特に明との交渉については活躍しました。しかしその立場から、武断派と呼ばれる黒田長政や福島正則といった豊臣家臣の反発を招くことになります。

 1598年に秀吉が死去すると、朝鮮出兵における戦争の終結と軍の帰国に尽力しました。

 徳川家康との対立

 豊臣家は豊臣秀頼が継ぐもまだ幼く、五大老筆頭の徳川家康が台頭していくことになります。それを危険視して、三成は家康暗殺を目論み、また家康は三成に対立する豊臣家臣である黒田長政や加藤清正らと縁戚関係を結び、三成との対立を深めていきました。

 前田利家によっていったんは三成と家康は和解するも、利家が1599年に死去すると、武断派の七人の将(加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明)が三成に対し、襲撃事件を起こします。
 三成は事前に察知して大坂から脱出し、伏見城に逃れます。この時に仲裁を行ったのが家康で、三成と七将の間で和解させ、その条件として三成は五奉行から退くことになり、佐和山城へと蟄居。結果として豊臣政権において失脚し、家康が更に台頭することとなりました。

関ヶ原の戦い

 1600年、家康は会津征伐を決行。これを好機とみた三成は、家康を挟み撃ちにする好機をみて、挙兵します。この時家康に従って従軍しようとしていた大谷吉継を味方に引き込みます。無謀と反対する吉継が最後には友誼をとって三成に味方する逸話は美談として有名です。

 家康との決戦の前に、諸大名の妻子を人質として手元に置こうとするものの、細川忠興の正室であるガラシャが抵抗し、死を選ぶという事件が起きてしまいます。
 総大将として毛利輝元を迎えた三成は、まず伏見城を攻めました。ここに拠る徳川の重臣鳥居元忠の必死の抵抗により、陥落に手間取るも、計略を使ってこれを落とします。

 当初三成は大垣城に拠って美濃にて家康を食い止めるはずでしたが、家康の反転が思いの他早かったことなどから、関が原での野戦ということになりました。これが天下分け目の決戦である、関ヶ原の戦いです。
 三成自身は小大名に過ぎず、手勢も少なかったものの、地の利と家臣らの奮闘もあって、倍する敵を相手に奮戦します。しかし結果的には小早川秀秋の裏切りにより、戦線は崩壊。西軍は敗北しました。

 戦場を離脱した三成でしたが、ついに捕縛。石田一族の拠る佐和山城は東軍の攻撃を受けて陥落し、多くの一族が討死します。
 三成自身は各地を引き回された上に、京都の六条河原にて斬首されました。享年41。

 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

 辞世として残されている言葉です。

石田三成の人物像

 有能で真面目な人物で、主である秀吉に対する忠誠は非常に厚かったといわれます。関が原で敗れたことや、人望が無く豊臣家中が割れてしまったことなど、以前は印象の悪いイメージで知られることが多かった人物ですが、よくよくこの人物について調べてみると、それだけではない、と分かってきます。

 生まれが1560年なので、三成が頭角を現してくるのは織田信長が本能寺の変で横死し、秀吉が天下人として台頭してくるあたりからです。歴史ドラマ等で三成は秀吉の側近として出てくることが多く、大河ドラマ『真田丸』にもしっかり出ています。今回は主人公である真田信繁が三成側にいるのでそこまで露骨に描かれていませんが、以前やっていた『軍師官兵衛』などではしっかりと嫌われ者の役をまっとうしている感じでした。

 この人物には否定的な歴史資料が色々あったりします。だいたいが、傲慢だの横柄など、そんな感じです。また前述したように、関が原の合戦前に、諸大名の妻子を人質にとろうとして失敗(細川ガラシャが自害するエピソードとして有名な、あれですね)し、東軍の諸大名の反感を大いに買ったなど、マイナスイメージも尽きない人物です。

 特に、この後天下をとった徳川家に敵対した者として、当然のように否定的な評価を運命付けられたともいえます。もちろん真田信繁のように、家康の敵対者でありながら好評価な人物もいるわけですが。

 一方で肯定的な資料もあります。
 領地では善政をしいて領民から慕われていたというし、また配下の武将に対しては厚く遇したため、島清興(左近)や蒲生郷舎といった名臣に恵まれてもいました。また大谷吉継とは親友だったといいますし、何より秀吉に引き立てられている時点で有能だったことは間違いありません。

 一方で加藤清正や福島正則といった名将が東軍についてしまったことからも、本当に三成との仲が犬猿であったのかどうかはともかく、何かしらそうなる要因があったことは確かでしょう。

石田三成の家紋

 三成の家紋といえば「大一大万大吉」が有名です。

 有名ですが、実はこれは厳密には家紋ではなく、旗印なんですね。だから関ヶ原などでよく見られるわけですが。

 ちなみにその意味は、万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れるというもので、まさに理想。理想に生きた、三成らしいものであるといえます。

 余談ですが、これは三成のオリジナルというわけではなく、鎌倉時代の武将である石田為久も使用していました。同じ石田という姓ですが、三成との血縁はありません。

石田三成に関わるエピソード

三杯の茶

 三成が秀吉に対し、最初はぬるめの茶を、次に少し熱めの茶を、最後に熱い茶を出した、というもので、三成の心遣いを示した逸話として知られています。これに感心した秀吉は、三成を召抱えた、ともいわれていますが、後世の創作である可能性も高いです。

大谷吉継との関係

 三成と吉継とは親友であったことは良く知られています。負けると覚悟した上で、敢えて友誼を選び、三成に味方して関ヶ原で果てたエピソードからも分かります。

 それに先立ち、らい病を患っていたとされる吉継が、茶会の際に茶碗を回し飲みをする中で、他の者が飲む振りをする中で三成だけがそれを飲み干したという逸話も有名です。

 また吉継が三成に味方した際に、三成には人望が無く、もしこのまま総大将となってしまえば無駄に敵を増やすことになるから、総大将は毛利輝元にすべきであると、助言したそうです。

秀吉の側近でありながら、小大名のままであったのは

 関が原において、250万石の大大名である徳川家康と三成は戦ったわけですが、この時の三成の知行は家康に比べるべくもないほど少ないものでした。

 かつて秀吉より33万石の知行を与えようとされたこともあったのですが、国政優先の為に加増を断っており、私利私欲の無い、精錬潔白な人物であったことが伺えます。

 ちなみに攻め落とされた佐和山城にはほとんど蓄えが無く、三成がいかに質素を旨としていたかも分かります。

死に際して

 捕らえられ、京都を引き廻されている中で、三成は白湯を所望するも無く、代わりに干柿を出されのですが、毒であるといって断っています。これに対し、もうすぐ処刑されるのに、身体のことを気にかけるなどおかしいと笑われたが、三成は毅然として、最後の瞬間まで命を大事にし、大儀に備えるものであるという趣旨の発言をし、周囲を感心させたといいます。

 宿敵であった家康も、処刑前に三成と面会し、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い」「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる」と述べたとされています。

淀殿との関係 三成の秀頼父親説

 よく秀頼は秀吉の実子ではなく、他に父親が別にいる、とまことしやかに語られている説があります。いわゆる三成秀頼父親説です。

 しかしこれはほぼ否定されており、というのも秀頼の誕生日から逆算すると、その頃三成は朝鮮出兵の真っ只中であり、密通は不可能であるとされています。
 どちらかといえば、大野政長の方が怪しいですね。

石田三成 関係年表

 1560年 石田正継の次男として誕生。
 1574年 秀吉に仕官。
 1583年 賤ヶ岳の戦いに参加。一番槍の功名をあげる。
 1584年 小牧・長久手の戦いに従軍。
     近江国の検地奉行を務める。
 1585年 従五位下治部少輔に叙任。
 1586年 島左近を召抱える。
     上杉景勝の上洛を斡旋。
 1587年 九州平定において、兵站担当となる。
     博多奉行になり、博多の復興に尽力。
 1588年 島津義久の秀吉への謁見を斡旋。
 1589年 美濃国を検地。
 1590年 小田原征伐に従軍。忍城攻め。
 1592年 文禄の役にて渡海。総奉行となる。
 1593年 碧蹄館の戦い、及び幸州山城の戦いに参加。
 1594年 島津氏、佐竹氏の領国を検地。
 1595年 豊臣秀次謀反の嫌疑により、これを糾弾。
     近江佐和山19万4000石の領主となる。
 1596年 京都奉行に任じられる。
 1597年 慶長の役。国内にて後方支援を担う。
 1598年 筑後国・筑前国の下賜を辞退。
     名島城を与えられる。
     秀吉死去。
 1599年 石田三成襲撃事件。
 1600年 関ヶ原の戦い。
     西軍敗退し、六条河原にて斬首。享年41。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
石田三成  70  58  77  95

 以前のシリーズでは軒並み軍事能力はかなり低めに設定されていたのですが、創造よりかなり評価が上がっていますね。関ヶ原の戦いも、例の裏切りさえなければどうなったのかわからなかったことを踏まえれば、ある意味家康と互角に渡り合ったわけですから、この程度は評価されてしかるべきかもしれません。
 ちなみに政治の95は、家康の94を上回っています。 

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