石川康勝 ~大坂の陣に散った、石川数正の次男

石川康勝 ~大坂の陣に散った、石川数正の次男

丸に竜胆 石川康勝とは戦国時代から江戸時代にかけての武将であり、大名です。
 信濃奥仁科藩主でしたがのちに改易され、大坂の陣に豊臣方として参戦。
 天王寺・岡山の戦いにて討死しました。

 石川康勝 (いしかわ やすかつ)
 生年  不詳
 没年  1615年(慶長20年5月7日)
 改名  勝千代⇒康勝
 別名  員矩 数矩 貞矩
     通称:肥後守
 家紋  丸に竜胆
 主君  結城秀康⇒豊臣秀吉
     ⇒徳川家康⇒徳川秀忠
     ⇒改易⇒豊臣秀頼
 親   父:石川数正
 兄弟  康長 康次
 妻   正室:堀尾忠晴の娘

来歴

父・数正の出奔

 石川康勝の生年は分かっていません。

 父親は徳川家康の重臣であった石川数正

 1584年(天正12年)に、家康の次男であった秀康が豊臣秀吉の人質として大坂に向かうことになりましたが、この時に兄・石川康長と共に扈従し、小姓として秀康に仕えるようになったとされています。

 翌1585年(天正13年)、父・数正は徳川より出奔し、秀吉に臣従。

 この事件は家康を大きく動揺させることになりましたが、兄・康長は父に従って、秀吉に仕えるようになりました。
 当時の康勝の状況は不明であり、又家来であった立場を脱した時期については分かっていません。

 1592年(文禄元年)、文禄の役が起こると、肥前名護屋城に宿直しました。

 その後、父・数正が死去すると、遺領であった信濃松本藩10万石のうち、1万5000石を相続(他の遺領は兄・康長が8万石、弟・康次が5000石にて分割相続)します。

 朝鮮出兵の際には350名を率いて出征しました。

関ヶ原の戦い

 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発します。

 兄・康長と共に、当初は家康に従って会津征伐に出陣。
 途中、石田三成が挙兵し、東西両軍に分かれることになりますが、康勝は東軍に与したことで所領を安堵されました。

 この関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従い中山道を進軍したため、途中西軍の真田昌幸の本拠である上田城を攻めた第二次上田合戦に参加していたこともあり、関ヶ原本戦には参加できていません。

 関ヶ原の戦い以降、康勝は兄に従い徳川家に仕えることになります。

 ただ康勝は豊臣秀頼とも昵近であり、1643年(慶長18年)に行われた豊国祭礼の時などには、秀頼の代理として参拝しているほどでした。

改易と大坂の陣

 しかし同年、兄・康長が大久保長安事件に際して領地隠匿を理由に処罰。
 この時に連座して、康勝もまた改易されてしまいます。

 その後、徳川氏と豊臣氏との緊張が高まると、1614年(慶長19年)に、大坂の陣が勃発。

 康勝は豊臣方として大坂城に入りました。
 この時、石川家の旧臣の多くが従ったとされています。

 大坂冬の陣において真田丸の戦いが始まると、松平忠直隊を砲撃しようとして隊兵が火薬を誤爆させる事故が発生し、康勝は負傷。

 しかしこの爆発を聞きつけた幕府軍は、内応していた南条元忠(内応はすでに大坂方に発覚し、切腹させられていた)の合図と勘違いし、真田丸に殺到。
 これを迎撃し、真田丸の戦いは大坂方の勝利に終わりました。

 翌年の大坂夏の陣においては、真田信繁(真田幸村)の寄騎として、最終決戦である天王寺・岡山の戦いに出陣。
 乱戦の中、討死したとされています。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
石川康勝  47  43  58  52

 兄・康長に比べればマシな能力です。
 とはいえ使えるかというと……物足りない能力ですね。
 真田丸の戦いでは勝利に貢献するも、偶然だったわけで、評価には繋がっていないようです。

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