今川泰範 ~明徳の乱・応永の乱で功を挙げた、今川氏第5代当主

今川泰範 ~明徳の乱・応永の乱で功を挙げた、今川氏第5代当主

足利二つ引両 今川泰範とは南北朝時代から室町時代にかけれの守護大名であり、駿河今川家の3代目の当主です。今川宗家としては5代目になります。
 室町幕府の侍所頭人などの役職も務めました。

 今川泰範(いまがわ やすのり)
 生年  1334年(建武元年)
 没年  1409年(応永16年)
 別名  仲高
 主君  足利義詮⇒足利義満⇒足利義持
 親   父:今川範氏
 兄弟  氏家
 子   範政 泰国 範信

家督を継ぐ

 泰範は今川範氏の次男として1334年(建武元年)に生まれました。

 次男という立場であり、今川宗家の家督は兄である今川氏家が継ぐことになっていたため、建長寺(神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山)に出家します。

 しかし1365年(貞治4年/正平20年)に父・範氏が死去すると、兄である氏家もまた、間を置かずに死去してしまいます。

 そのためまだ存命であった祖父・今川範国により、泰範は還俗して今川宗家の家督を継ぐことになったようです。

 この時、後継者として従兄弟である今川貞臣もまた候補に挙がっていました。
 これは泰範の兄である氏家が、遺言で従兄弟の貞臣を指名していたためともいわれています。

 貞臣は名将と知られる人物で、更にその父である今川貞世は九州探題なども務め、九州地方で非常に活躍して影響力もある人物であったのですが、その貞世は実子である貞臣の家督相続に反対し、結果的に泰範が還俗して家督を継ぐことになりました。

 この還俗の命は、祖父・範国ではなく叔父である貞世の命であったともいわれています。

明徳の乱と応永の乱

 父の後を継いで守護大名となった泰範でしたが、1378年(永和4年/天授4年)に侍所頭人に任じられ、室町幕府の政治にも関与しました。

 そして1391年(明徳2年/元中8年)に山名氏が起こした反乱である明徳の乱及び、1399年に大内氏が起こした反乱である応永の乱では幕府方として参戦し、鎮圧に際して武功を挙げたとされています。

 また泰範は叔父である今川貞世や今川仲秋とは不仲でした。

 この二人の叔父は、半国守護として駿河の守護大名となるのですが、元々遠江・駿河の守護大名であった泰範は、叔父が自ら所望してこの守護職を得たと誤解し、それに対して恨みを抱くようになります。

 その後、大内義弘が挙兵して応永の乱が勃発。
 泰範はその際に叔父・貞世が大内氏に通じていると讒言し、守護職を奪い取りました。

 そのため貞世は失意し、その流れから鎌倉公方である足利満兼に乱に呼応するよう呼びかけたとされ、将軍・足利義満から応永の乱に関与していたのではないかと疑われてしまいます。

 そして1400年(応永7年)に関東管領である上杉憲定に対し、今川貞世の追討令が下りました。

 この時、貞世の助命嘆願を行ったのが、泰範と上杉憲定であったとされています。

 泰範は貞世の守護職を奪った張本人ではあったものの、かつて自分を今川宗家の当主に推挙してくれた恩を忘れず、そのため領地は奪っても命までは奪えなかったようで、その愛憎具合が見て取れます。

 その後1409年(応永16年)に死去。享年76。
 この没年に関しては確定されておらず、異説もあるようです。

 家督は嫡男である今川範政が継ぐことになります。

今川家歴代当主

 第一代  今川国氏 1243年~1282年
 第二代  今川基氏 1259年~1323年
 第三代  今川範国 1295年~1384年
 第四代  今川範氏 1316年~1365年
 第五代  今川泰範 1334年~1409年
 第六代  今川範政 1364年~1433年
 第七代  今川範忠 1408年~1461年
 第八代  今川義忠 1436年~1476年
 第九代  今川氏親 1471年~1526年
 第十代  今川氏輝 1513年~1536年
 第十一代 今川義元 1519年~1560年
 第十二代 今川氏真 1538年~1615年

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