今川氏真 ~国を滅ぼした暗君か、家名を残した文化人か

今川氏真 ~国を滅ぼした暗君か、家名を残した文化人か

足利二つ引両 名門今川氏の10代当主であり、父親である今川義元が桶狭間にて横死した後、領国である駿河を武田信玄と徳川家康によって奪われ、大名としての今川家を滅亡させたとして知られる人物です。

 戦国大名の中の暗君の一人として有名ですが、今川家が滅んだ以降の氏真の動向をみていくと、なかなかに数奇な運命を辿っており、結果的には見事に戦国時代を生き抜いたともいえる人物かもしれません。

 あくまで結果論ですが、あの時代、最後に生き残った者こそが勝ちなのですから。

 今川氏真(いまがわ うじざね)
 生年   1538年(天文7年)
 没年  1615年(慶長19年)
 改名  龍王丸⇒氏真⇒宗誾
 別名  彦五郎
 家紋  足利二つ引両
 主君  足利義輝⇒北条氏康
     ⇒北条氏政⇒徳川家康
 親   父:今川義元 母:定恵院
 兄弟  嶺松院
 妻   正室:早川殿(北条氏康の娘)
     側室:庵原忠康の娘
 子   吉良義定室 範以
     品川高久 西尾安信 澄存

今川義元の後継者として

 1538年、義元の嫡子として誕生。母親は武田信虎の娘である定恵院です。

 1554年には北条氏康の娘である早川殿と婚姻し、いわゆる今川、武田、北条による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が成立しました。

 1558年頃に、家督が譲られたとされています。これは義元が上洛を狙って尾張方面に傾注するために、氏真に本国を任せる必要があったからではないかということです。

 そして1560年。運命の桶狭間にて義元は織田信長に討たれ、氏真はその領国を名実共に引き継ぐことになりました。

続く離反に混乱する今川家

桶狭間の戦い
『尾州桶狭間合戦』

松平元康の独立

 義元の死は今川家に動揺を与えました。桶狭間の戦いで多くの重臣も討死しており、義元の死を契機に領国にて国人の離反の動きが活発化します。

 氏真はこの動揺を抑えようと努力しますが、西三河の地にて松平元康(徳川家康)が離反してしまいます。
 氏真と元康は断交し、今川の領国はそのどちらにつくかで紛争が勃発。

 1562年には元康と信長による清洲同盟が成立し、元康は完全に今川家から独立しました。
 氏真も黙っていたわけでなく、牛久保城へ自ら軍を進めるも、元康の活躍により撃退されてしまします。

 その後1564年までに、今川家は三河における支配を完全に失うことになります。

遠江にも波及する混乱

 その後も次々と離反の動きが相次ぎました。井伊谷の井伊直親や、飯尾連竜、堀越氏延、犬居の天野景泰など、遠州錯乱と呼ばれる混乱が続きます。

 その中で1562年に井伊直親を誅殺し、1565年に飯尾連竜を謀殺、連竜が城主を務めた曳馬城も攻撃し、1566年にはこれを下し、反乱は一応の収束をみました。

加速する今川家の衰退

 混乱や反乱の中にあって、氏真は外交や内政によって、その収束を目指す努力も行っていたようです。

 外交にあっては北条との同盟を維持しつつ、内政にあっては楽市や徳政令を実施したりと、かなり先んじた政策を実施したりもしていたようです。

 ただ徳政令など、一見良いことにも思える政策も、いざ実行しようとすると新たな問題を発生させることにもなり、結果的に今川家の衰退は続いていくことになります。

 そしてよく氏真が暗君であるといわれる理由の一つとして、こういった時節にあって蹴鞠などの遊興に耽り、政務を省みなくなったことで、ますます領国は不安定化し、滅亡へと至ったとされています。

今川家の滅亡へ

甲相駿三国同盟の破棄

 今川家そのものが衰退する一方で、外交面においても状況が変化していきます。

 甲相駿三国同盟の一角であった甲斐の武田家において、武田信玄の嫡男である武田義信が廃嫡されるという事件が起きました。義信には氏真の妹である嶺松院が嫁いでおり、義信が自害すると、氏真の要請で今川家へと還されることになり、ここに武田家との婚姻が解消されることになります。

 さらに信玄は氏真と敵対する信長から正室を迎え、さらには家康(元康から改名)と盟約を結んだことで、武田家と今川家との関係が緊迫します。

 そのため氏真は武田家と敵対する上杉家と和睦し、甲斐への塩止めなどの対抗措置を行いました。

薩埵峠の戦い

 これらの事態によって、今川家は武田家と手切れとなり、同盟は解消。信玄による駿河侵攻が始まります。

 武田信玄が率いるは1万2000。これに対抗するために、氏真自身も出陣。重臣の庵原忠胤に1万5000の軍勢を与えて迎撃させ、自身は清見寺に陣を構えました。いわゆる薩埵峠の戦いです。

 氏真は正確に状況を判断し、薩た峠にて武田軍を挟み撃ちにする戦術を立てます。薩埵峠を越えないと武田軍は駿河を攻めることができないので、ここを今川軍が抑えて迎え撃ち、その背後を北条家の援軍に突いてもらうことで挟撃しようという計画でした。

 戦いが始まると、武田軍を相手に今川軍は奮戦します。今川がこのまま持ち堪え、北条の援軍が間に合えば十分に勝機もあったのですが、すでに今川方はかなりの調略を受けており、駿河の有力国人21人が次々に内通し、この状況に身の危険を悟った氏真は陣を敷いた清見寺から脱出。これによって今川軍は総崩れとなり、武田軍は峠を突破して、そのまま駿府に突入しました。

 氏真は駿府の北西にある賤機山城に篭城しようとしましたが、武田軍の進軍は早く、先鋒の馬場信春が賤機山城を占拠し、今川軍の退路を断ってしまいます。

 そのため重臣の朝比奈泰朝がいる掛川城へと、氏真はやむなく落ち延びることになりました。

 氏真の正室であった早川殿(北条氏康の娘)も徒歩で脱出するほど悲惨な目に遭い、その父親である氏康は激怒したといいます。そのため氏康は嫡男氏政に命じて出兵し、今度は武田が薩た峠で迎え撃つ形で第二次薩た峠の戦いが行われたわけですが、これは引き分けに終わっています。

 かくして駿府は陥落し、焼き払われる憂き目に遭ったのです。

掛川城の戦い

 一方で、徳川家康も三河から遠江に侵攻し、次々に城を落として掛川城を包囲します。
 ここで今川軍は意外な粘りをみせ、朝比奈泰朝らの奮戦もあって半年近くも持ち堪えました。

 戦いが長期化し、また第二次薩た峠の戦いで武田と北条の戦いが膠着する中で、家康は氏真との和睦を模索し始めます。

 結果、氏真と家康、氏康の間で盟約が成立。武田を駆逐した後、氏真を駿河の国主にする、というものでしたが、これは履行されることはありませんでした。

 ともあれ掛川城は無血開城され、徳川と北条の間で同盟が成立。氏真は北条を頼って落ち延び、戦国大名としての今川家は滅亡に至ります。

北条から徳川へ

 妻の実家である北条を頼った氏真は、駿河の支配回復を狙って北条氏の後援を受けつつ出兵を繰り返すも、1571年頃には大勢が決してしまい、最後まで氏真が駿河を回復させることはできませんでした。

 そして1571年には北条氏康が死去。これによって後継者である氏政は武田と和睦してしまいます。
 そのため氏真は家康を頼ってその庇護下に入ることになりました。

 家康にとって、かつての駿河の国主であった氏真を保護することは、領国支配の大義名分が立つため意義があったからだとされています。

 その後氏真は家康に下にいながら、旅に出たり、また父親の仇である織田信長と会い、蹴鞠を披露したり、またある時は家康に従って従軍したりと、時代の流れに乗りながら生きていたようです。

 1591年頃には京都に住んでいたようで、和歌や連歌の会に参加したり、古典の書写などを行ったりと、文化人としての活動を行っていたようです。
 その後氏真の次男が徳川秀忠に出仕。

 1612年頃には品川に屋敷を与えられ、家族のいる江戸に移り住みました。
 1613年には正室である早川殿が死去。
 1615年に、77歳にて死去しました。

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今川氏真の評価

 父である義元の代までは今川家は随一の大名であり、天下に一番近いところにいたとされているほどだったにも関わらず、それをたった一代で滅ぼしたという点において、その評価が著しく低くなるのは当然かもしれません。

 しかし義元が討死した時点で今川家はかなりの打撃を受けており、そんな状況下でも内政においても政策を行ったり、外交的にも活動したり、またいざ戦となれば自ら参加したりと、結果こそでなかったものの、行動自体は決して暗愚だけとも言い切れない面もあります。状況が状況でなければ、無難に領国を治めることができていたかもしれません。

 一方で、いまいちな大名としての評価ではなく、氏真個人の評価としてはなかなかのものがあります。

 実は剣術の指南を剣聖・塚原卜伝に受けており、また凄腕の蹴鞠の技術も持っていたようです。

 また教養も高かったようで、和歌なども詠み、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙に名を連ねているほどです。

 また、家臣や国人に散々離反されたりもしている一方で、大名家として今川家が滅んだ後も慕い続けた家臣も多く、個人としての魅力は高かったと思われます。
 特に正室である早川殿との仲は良く、両者共に長生きしました。
 文武共に優れ、また魅力のある人物であったようです。

 しかしそれが一国の大名として評価されるかどうかはまた別もの、というところが時代の哀しいところですね。

今川家のその後

 戦国時代が終わり、世は徳川の時代へと移り変わっていきますが、氏真はその子孫を徳川家臣として残し、今川家を存続させることができました。これは甲相駿三国同盟の武田や北条、そして父の仇である織田家ですらできなかったことであると踏まえれば、この中にあって最後に勝ち残ったのは今川氏真であった、といえるかもしれません。

今川家歴代当主

 第一代  今川国氏 1243年~1282年
 第二代  今川基氏 1259年~1323年
 第三代  今川範国 1295年~1384年
 第四代  今川範氏 1316年~1365年
 第五代  今川泰範 1334年~1409年
 第六代  今川範政 1364年~1433年
 第七代  今川範忠 1408年~1461年
 第八代  今川義忠 1436年~1476年
 第九代  今川氏親 1471年~1526年
 第十代  今川氏輝 1513年~1536年
 第十一代 今川義元 1519年~1560年
 第十二代 今川氏真 1538年~1615年

今川氏真 関係年表

 1538年 今川義元の嫡子として誕生。
 1554年 早川殿と結婚。甲相駿三国同盟成立。
 1560年 桶狭間の戦い。父・義元死去。
     松平元康離反。
 1561年 長尾景虎の関東侵攻に際し、北条家に援軍派遣。
 1562年 牛久保城に出兵するも、撃退される。
     井伊直親を誅殺。
 1564年 吉田城開城。今川の三河支配権を失う。
     曳馬城主の飯尾連竜が反乱。
 1565年 飯尾連竜を謀殺。
     義信事件。
 1566年 楽市や徳政令の実施。
 1567年 嶺松院の送還。
 1568年 甲駿同盟破棄。駿河侵攻。
     薩埵峠の戦い。駿府陥落。
 1569年 掛川城の無血開城。戦国大名としての今川家の滅亡。
 1571年 家康の庇護下に入る。
 1575年 上洛の旅に出る。織田信長と会見。
     長篠の戦い。三河に戻る。その後従軍。
 1576年 牧野城主になる。
 1577年 牧野城主解任。
 1598年 次男・品川高久が徳川秀忠に出仕。
 1607年 長男・範以が京都で死去。
 1611年 範以の遺児・範英が徳川秀忠に出仕。
 1612年 冷泉為満邸で行われた連歌会に出席。
     品川に屋敷を与えられる。江戸に移住。
 1613年 早川殿と死別。
 1615年 氏真死去。享年77。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
今川氏真  11  23  2  61

 いっそ清々しいまでの腐った能力。知略2って、いったいどんな脳味噌をしていたのか……。
 かつてのシリーズにあった教養とかの能力値があればかなりの高評価なのですが、無くなった今では悲惨の一言です。
 いつか見直される日はくるのでしょうか。

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