今川氏輝 ~謎の死が花倉の乱の端緒となった、今川氏第10代当主

今川氏輝 ~謎の死が花倉の乱の端緒となった、今川氏第10代当主

足利二つ引両 今川氏輝とは戦国時代における駿河国の戦国大名です。
 今川宗家の10代目にして駿河今川氏の8代目に当たり、今川義元の兄としても知られています。

 今川氏輝(いまがわ うじてる)
 生年  1513年(永正3年)
 没年  1536年(天文5年)
 改名  龍王丸⇒氏輝
 別名  五郎
 主君  足利義晴
 親   父:今川氏親 母:寿桂尼
 兄弟  彦五郎 玄広恵探 義元 氏豊
     瑞渓院(北条氏康室)
     娘(松平親善室⇒鵜殿長持室)
     娘(中御門宣綱室)
     娘(瀬名氏俊室)
     養女(井伊直平娘 今川義元側室⇒関口親永室)

母・寿桂尼の後見

 今川氏輝は今川氏親の嫡男として1513年(永正3年)に生まれました。
 母は寿桂尼

 1525年(大永5年)に元服して氏輝を名乗りました。

 翌年の1526年(大永6年)には父・氏親が死去。

 氏輝はこの時まだ若干14歳であり、政務は母である寿桂尼が後見人として補佐したといわれています。
 そのため氏輝が成長するまでの間、実質的な実権は寿桂尼が握っていました。

 そして1532年頃より新政を始めます。

 内政では検地を実施し、外交では調停に貢物をして関係強化を図り、隣国である相模の後北条氏とは駿相同盟を維持し、それを背景に甲斐国の武田信虎と争いました。

 しかし1536年(天文5年)、氏輝は急死します。享年24。

 これが3月17日のことで、冷泉為和の日記や武田家臣の日記である『高白斎記』によると、同日に弟であった今川彦五郎も死去しています。

 二人の兄弟が同日に突然死したことについては謎が多く、毒殺や自殺など、諸説あるようです。

 ともあれ氏輝と彦五郎の死によって、氏輝には嫡子が無かったこともあり、その後家督争いが発生しました。

 氏輝には彦五郎の他に出家していた玄広恵探と梅岳承芳(今川義元)がおり、この二人の間で花倉の乱と呼ばれるお家騒動が勃発することになるのです。

今川家歴代当主

 第一代  今川国氏 1243年~1282年
 第二代  今川基氏 1259年~1323年
 第三代  今川範国 1295年~1384年
 第四代  今川範氏 1316年~1365年
 第五代  今川泰範 1334年~1409年
 第六代  今川範政 1364年~1433年
 第七代  今川範忠 1408年~1461年
 第八代  今川義忠 1436年~1476年
 第九代  今川氏親 1471年~1526年
 第十代  今川氏輝 1513年~1536年
 第十一代 今川義元 1519年~1560年
 第十二代 今川氏真 1538年~1615年

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
今川氏輝

 76  58  66  73

 弟・義元には劣るものの、それなりの能力値。
 しかし今川家を率いていくにはやはり物足りないかもしれません。 

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