今川氏親 ~今川氏の悲願である遠江奪還を成し遂げた、今川義元の父

今川氏親 ~今川氏の悲願である遠江奪還を成し遂げた、今川義元の父

足利二つ引両 今川氏親とは戦国時代の武将であり、駿河・遠江の守護大名です。
 今川宗家の9代目及び駿河今川氏の7代目に当たり、子に今川義元が知られ。北条早雲の甥としても知られています。

 今川氏親(いまがわ うじちか)
 生年  1471年(文明3年)
 没年  1526年(大永6年)
 改名  龍王丸⇒氏親
 別名  彦五郎
 主君  足利義尚⇒足利義材
     ⇒足利義澄⇒足利義稙
 親   父:今川義忠 母:北川殿
 兄弟  正親町三条実望室 心範
 子   氏輝 彦五郎 玄広恵探 
     義元 氏豊
     瑞渓院(北条氏康室)
     娘(松平親善室⇒鵜殿長持室)
     娘(中御門宣綱室)
     娘(瀬名氏俊室)
     養女(井伊直平娘 今川義元側室⇒関口親永室)

出生と北条早雲との関係

 1467年(応仁元年)に応仁の乱が勃発すると、父・今川義忠は東軍として出陣し、上洛します。
 この際に生まれたのが氏親でした。

 母である北川殿は伊勢新九郎盛時、いわゆる北条早雲の姉に当たる人物で、氏親は早雲に甥に当たることになります。

 伊勢氏は幕臣であって室町幕府政所執事を務め、今川家との申次衆であった縁からの縁談だったと考えられています。

父・義忠の死と家督争い

 1476年(文明8年)に、父・義忠は遠江国において、塩買坂での戦いで横地氏や勝間田氏の残党の急襲を受け、戦死します。

 義忠が最後に討伐した横地氏や勝間田氏は、今川に敵対する斯波氏に内通したために討たれたのですが、この内通は実際には幕府が任命した遠江守護である斯波義良に帰参であったとされています。

 つまり幕府の命によって動いていた両人を妨害する形で討ち滅ぼした義忠こそ、幕府の反逆者とみなされる可能性がありました。

 この時、氏親はまだ幼少であり、母である北川殿ともども反逆者とされる可能性があったため、身を隠したともいわれています。

 このような状況下において、今川家臣である三浦氏や朝比奈氏が、父・義忠の従兄弟である小鹿範満を擁立して家督の継承を主張し、氏親派と範満派に分かれ内紛が発生しました。

 また更に、範満の外祖父であった上杉政憲とその家宰であった太田道灌が駿河に進駐し、介入してきます。

 この混沌とした状況に際して、幕府は氏親の叔父にあたる伊勢新九郎を下向させ、範満が氏親の後見人として家督を代行させることで、仲裁しました。

 しかし氏親が15歳になっても範満は家督を返そうとせず、むしろ家督をそのまま奪取する動きすらみせます。

 そのため氏親と北川殿は伊勢新九郎盛時に助けを求め、それを受けた盛時は再び駿河に向かい、兵を集めて今川館を襲撃して範満を殺害し、氏親は元服してこれまでの龍王丸から氏親に名を変え、正式に今川家の当主となりました。

 また功のあった盛時には興国寺城が与えられたといいます。

 その後、盛時こと北条早雲は将軍・足利義澄の命を受けて義澄の異母系足利茶々丸を討ち、伊豆を手に入れました。
 その際に氏親も兵を出してこれを助け、氏親と早雲の関係を密接になっていきます。

遠江国の奪還

 駿河の隣国遠江国は、もともと今川氏が守護職を継いできたのですが、途中で斯波氏に奪われていました。
 
 父である義忠もこの奪還を目指していたものの叶わず、その遠江で命を落とすことになります。
 そのため遠江国奪還は今川氏にとっての悲願となっていました。

 氏親は遠江国への進出を積極的に行い、早雲が兵を率いて侵攻を行ったといわれています。
 また同時に氏親は早雲の関東進出にも協力して、共に出陣を重ねました。

 1505年(永正2年)に、正室として中御門宣胤の娘である寿桂尼を迎えます。
 この寿桂尼は今川4代を支えた女性として知られています。

 1506年(永正3年)以降、早雲が率いた今川軍が三河へ侵攻し、松平長親と戦い敗北。
 そして1509年(永正6年)以後、早雲は今川家の武将として活躍せずに、独立して関東進出を本格化させていくことになります。

 1508年(永正5年)に将軍・義澄が従兄弟である足利義稙に奪われます。

 氏親は義稙支持を表明し、このことで幕府から遠江守護に任じられることになりました。

 しかし尾張守護の斯波義達が1511年(永正8年)に今川方の城である刑部城を攻め、氏親はこれを撃退。
 撃退されても義達は攻撃を続け、斯波氏との戦いが続くことになります。

 1516年(永正13年)には曳馬城の大河内貞綱が今川家に反旗して、それに斯波義達も加わりました。

 氏親は曳馬城を包囲し、水の手を立つ作戦でこれを陥落させます。

 大河内貞綱は戦死し、義達は出家することで降伏し、尾張へと送還され、遠江は平定されることになりました。

 また一方で、氏親は甲斐の守護である武田信虎ともたびたび争い、甲駿同盟が成立するまで武田氏と対立することになります。

領国経営

 遠江を得た氏親は検地を実施して支配を固め、また安倍金山を開発して財力を蓄えました。

 また正室であった寿桂尼との繋がりから駿府に京文化を取り入れ、氏親もまた和歌や連歌に親しんだといわれています。

 しかし晩年は中風にかかり、寝たきりとなったため、寿桂尼が政務を補佐。

 死の寸前には戦国時代においての分国法として代表的な『今川仮名目録』を制定しました。

 そして1526年(大永6年)、今川館にて死去。

 その家督は嫡男・氏輝に引き継がれることになります。

今川家歴代当主

 第一代  今川国氏 1243年~1282年
 第二代  今川基氏 1259年~1323年
 第三代  今川範国 1295年~1384年
 第四代  今川範氏 1316年~1365年
 第五代  今川泰範 1334年~1409年
 第六代  今川範政 1364年~1433年
 第七代  今川範忠 1408年~1461年
 第八代  今川義忠 1436年~1476年
 第九代  今川氏親 1471年~1526年
 第十代  今川氏輝 1513年~1536年
 第十一代 今川義元 1519年~1560年
 第十二代 今川氏真 1538年~1615年

人物カテゴリの最新記事