今川範忠 ~天下一苗字の恩賞を受けた、今川氏第7代当主

今川範忠 ~天下一苗字の恩賞を受けた、今川氏第7代当主

足利二つ引両 今川範忠とは室町時代の守護大名であり、今川宗家の7代目及び駿河今川氏の5代目に当たる人物です。
 天下一苗字の恩賞を受けたことでも知られています。

 今川範忠(いまがわ のりただ)
 生年  1408年(応永15年)
 没年  1461年(寛正2年)
 別名  彦五郎
 主君  足利義教⇒足利義勝⇒足利義政
 親   父:今川範政 母:上杉朝顕の娘
 兄弟  範豊 範忠 範満 小鹿範頼
 子   義忠 範勝 範慶

家督争い

 1408年(応永15年)に今川範政の嫡子として生まれます。

 しかし父・範政は晩年に末子の千代秋丸を溺愛し、範忠を廃嫡して家督を千代秋丸に譲ろうとしました。
 このことが原因で、範忠と千代秋丸の間で熾烈な家督争いが発生してしまいます。

 このような状況下で後継者を決めることができないまま、1433年(永享5年)に範政は失意のうちに死去。
 今川宗家の家督については室町幕府の将軍・足利義教の裁定に委ねられることになります。

 足利義教はこの頃、鎌倉公方である足利持氏と対立しており、まだ幼少であった千代秋丸では鎌倉公方からの干渉を受けると考え、すでに成人していた範忠を選び、範忠に家督を継がせることを裁定しました。

 ただ穏便にはいかず、この時に反対派であった狩野氏や富士氏が鎌倉公方の支援を受けて蜂起したものの、将軍・義教の支持を受けたことで、範忠はこれを鎮圧しました。

永享の乱・結城合戦と天下一苗字

 範忠はこのような経緯で家督を継いだこともあり、幕府に対する忠誠が非常に高かったといわれています。
 幕府も範忠を信任し、関東の監視役を任せました。

 そして1438年(永享10年)に勃発した永享の乱では足利義教の命を受け、足利持氏討伐のために軍を派遣。
 今川勢は持氏勢を破って功を挙げます。

 永享の乱により鎌倉府は滅亡し、新たな鎌倉公方として将軍・義教は実子を送り込もうとしますが、これに対して下総の結城氏朝・持朝親子が足利持氏の遺児を擁立し、幕府に対して反乱を起こしました。

 これが1440年(永享12年)に起こった結城合戦と呼ばれる戦いです。

 この反乱に対し、幕府方は上杉清方を総大将として、範忠や小笠原政康などの諸将を討伐のために派遣します。
 範忠はここでも功を挙げ、この武功により義教により天下一苗字の恩賞を与えられることになりました。

 この天下一苗字とはこの世に一家だけの姓とする、というもので、具体的には今川姓はあくまで宗家のみが名乗ることが許されて、分家や庶家は今川姓の使用を禁じる、というものです。

 この頃の今川氏には宗家である駿河今川氏の他に、分家である遠江今川氏がありました。
 遠江今川氏の祖は今川範国の次男である今川貞世です。

 天下一苗字により、時の遠江今川氏の当主であった今川範将は堀越の姓を名乗ったとされています。

享徳の乱

 1455年(享徳3年)に、再び幕府と鎌倉公方との間に乱が勃発します。
 これが享徳の乱と呼ばれるもので、関東地方における戦国時代開始の遠因になりました。

 この享徳の乱は約30年に渡って続いた争乱であり、その前期にあたる期間中において範忠は足利成氏と戦い、成氏が転戦して鎌倉を留守にしている間に鎌倉を占拠して功を挙げました。

 これによって成氏は鎌倉奪還を断念し、古河城に入って以後、古河公方と呼ばれるようになります。

 範忠は1460年(寛正元年)に帰国し、翌年の1461年(寛正2年)に家督を嫡男・義忠に譲りました。
 そしてその後ほどなく死去したとされています。

今川家歴代当主

 第一代  今川国氏 1243年~1282年
 第二代  今川基氏 1259年~1323年
 第三代  今川範国 1295年~1384年
 第四代  今川範氏 1316年~1365年
 第五代  今川泰範 1334年~1409年
 第六代  今川範政 1364年~1433年
 第七代  今川範忠 1408年~1461年
 第八代  今川義忠 1436年~1476年
 第九代  今川氏親 1471年~1526年
 第十代  今川氏輝 1513年~1536年
 第十一代 今川義元 1519年~1560年
 第十二代 今川氏真 1538年~1615年

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