今川範政 ~『源氏物語提要』の著者にして、征夷副将軍・今川氏第6代当主

今川範政 ~『源氏物語提要』の著者にして、征夷副将軍・今川氏第6代当主

足利二つ引両 今川範政とは南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名であり、駿河今川氏の4代目の当主です。今川宗家としては6代目に当たります。
 室町幕府の征夷副将軍も務めました。

 上杉禅秀の乱で功績を挙げるなど武人として活躍もさることながら、歌人しても才能があり、更には『源氏物語提要』の著書も知られています。

 今川範政(いまがわ のりまさ)
 生年  1364年(正平19年/貞治3年)
 没年  1433年(永享3年)
 別名  五郎
 主君  足利義持⇒足利義量⇒足利義教
 親   父:今川泰範
 兄弟  泰国 範信
 子   範豊 範忠 範満 小鹿範頼

範政と上杉禅秀の乱

 今川範政は1364年(正平19年/貞治3年)に今川泰範の長男として誕生しました。

 その父である泰範が1409年(応永16年)に死去すると、跡を継いで家督を相続します。
 ただ泰範の没年には諸説あって、泰範の存命中に家督を継いだ可能性も考えられているようです。

 そして1416年(応永23年)に、上杉禅秀の乱が勃発。

 上杉禅秀の乱とは、前の関東管領である上杉氏憲が鎌倉公方である足利持氏に対して起こした反乱です。

 氏憲と持氏の対立から氏憲が関東管領を更迭されると、後任として山内上杉家の上杉憲基が管領職につきます。
 これにより氏憲は足利満隆・持仲らと謀って持氏に対して反乱を起こしました。

 足利満隆の挙兵により持氏・憲基の拘束に向かうものの、両名らは家臣と共にいち早く鎌倉を脱出しており、しかし鎌倉は反乱軍によって制圧されてしまいます。

 この事件は範政より京に伝えられ、幕府は騒然となりました。
 状況は混乱するものの、鎌倉を脱出した持氏・憲基は範政の元に逃れており、将軍・義持は持氏救援に動きます。

 これにより幕府の命を受けた範政は、上杉房方・小笠原政康・佐竹氏・宇都宮氏らと共に満隆・氏憲討伐に向かいます。

 この動きを知った氏憲は逆に範政の駿河に攻め入りますが、今川はこれを撃退。

 1417年(応永24年)に行われた世谷原の戦いにおいて、上杉房方・小笠原政康に勝利した氏憲でしたが、その隙を狙って範政の今川軍は箱根峠を越えて相模に侵攻し、氏憲や満隆らが自害したことで乱は収束しました。

 この乱の平定にあたって範政が活躍したこともあって幕府の信任を得、征夷副将軍という重役に任じられることになったのです。

晩年

 室町幕府では将軍が代替わりし、足利義教の代になると、この義教から寵愛された範政は幕府内において重用されました。

 この足利義教と鎌倉公方・足利持氏はのちに対立すると、鎌倉の監視役を務めることになります。
 両者の対立はその後も深まり、範政の死後ではありますが、永享の乱が勃発した際には今川軍は再び出兵することになるのです。

 1433年(永享5年)に、範政は死去。

 しかしこの直前である彼の最晩年において、範政は末子である千代秋丸を溺愛し、家督を継がせようとしました。
 この行為により、嫡男であった今川範忠と千代秋丸の間で家督争いが発生してしまいます。

 範政はこのようなお家騒動に失意しつつ、その最中に享年70にて死去しました。

 死後も家督争いは続いたものの、足利持氏と対立していた足利義教の裁定により、幼少である千代秋丸が鎌倉公方の影響を懸念したことで、成人していた範忠が相続することになったのです。

『源氏物語提要』

 範政は武将としてだけでなく、歌人としても秀でた才能を発揮しました。
 『新続古今和歌集』にも、彼の和歌が採録されています。

 また『源氏物語提要』と呼ばれる『源氏物語』の梗概書、すなわちダイジェスト版を記したことでも名を残しました。

今川家歴代当主

 第一代  今川国氏 1243年~1282年
 第二代  今川基氏 1259年~1323年
 第三代  今川範国 1295年~1384年
 第四代  今川範氏 1316年~1365年
 第五代  今川泰範 1334年~1409年
 第六代  今川範政 1364年~1433年
 第七代  今川範忠 1408年~1461年
 第八代  今川義忠 1436年~1476年
 第九代  今川氏親 1471年~1526年
 第十代  今川氏輝 1513年~1536年
 第十一代 今川義元 1519年~1560年
 第十二代 今川氏真 1538年~1615年

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