井伊直虎 ~遠江井伊谷のおんな城主、井伊家を存続させた次郎法師

井伊直虎 ~遠江井伊谷のおんな城主、井伊家を存続させた次郎法師

龍潭寺《井伊直虎所縁の龍潭寺》

丸に橘 井伊直虎とは戦国時代にあって、女性でありながら遠江井伊谷の領主を務めたことで知られています。
 また存亡の危機にあった井伊家の事実上の当主も務めており、女地頭とも呼ばれていたようです。

 徳川四天王で知られる井伊直政とははとこであり、養母でもありました。

 井伊直虎(いい なおとら)
 生年  1536年(天文5年)※推測
 没年  1582年(天正10年)
 改名  祐圓尼⇒直虎
 別名  通称:次郎法師
 主君  今川氏真⇒徳川家康
 親   父:井伊直盛 母:祐椿尼
 夫   婚約者:井伊直親
 子   直政

小野政直(道高)の暗躍

 生年は分かっていませんが、遠江井伊谷城主であった井伊直盛の娘として生まれます。はっきりとは分かっていませんが、1536年頃に誕生したのではないかとされています。
 母親は今川家重臣である新野親矩の妹の祐椿尼。

 井伊家の当主であった父・直盛には直虎以外に男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎えるつもりでいました。

 ところが1544年(天文13年)、直親が井伊家の家督を継ぐことに家臣が反感を抱き、今川氏の与力であった小野政直(道高)の讒言により、直親の父親である井伊直満とその弟である井伊直義は、主君・今川義元への謀反の疑いをかけられて自害。
 直親は隣国の武田領であった信濃に逃亡し、伊那郡松源寺へと落ち延びました。
 井伊家においては、直親の命を守るためにその所在は秘密にされたといいます。

 これにより、許婚という立場であった直虎は龍潭寺で出家し、次郎法師と名乗りました。
 ちなみに次郎法師という名前は、井伊氏の二つの惣領(家督相続予定者)名である次郎と法師を繋ぎ合わせたものです。

 その後、1555年になって井伊直親は今川家に復帰します。
 しかしこの時直親は奥山朝利の娘をすでに正室に迎えており、婚約者であった直虎は婚期を逸してしまいました。

井伊家の苦難

桶狭間の戦いと井伊直盛の死

 今川家当主・今川義元は1554年に甲相駿三国同盟を武田家、北条家と締結したことで後顧の憂いが無くなり、西方の三河・尾張に向けての領土拡大を図ります。

 そして1560年(永禄3年)、今川義元は大軍を自ら率い、駿府を出立。尾張を目指して東海道を西進します。
 直虎の父である直盛も、これに従い従軍しました。

 しかし世に言う桶狭間の戦いにおいて、織田信長の急襲に遭い、義元は討死。直盛もまた戦死します。

井伊直親の死

 これによって井伊家は当主不在となり、今川家に復帰していた井伊直親が跡を継ぎ、当主となりました。

 この頃の遠江国は義元の死を受けて遠州錯乱と呼ばれる混乱状態にあり、直親は父親であった直満と同じく讒言され、内通の疑いを受けることになります。

 この讒言を行った人物は、かつて直満を陥れた小野道高の息子である小野政次(道好)でした。

 これにより、義元の跡を継いで今川家の当主となった今川氏真より、すでに今川家から離反していた松平元康(徳川家康)との内通の疑いをかけられた直親でしたが、縁戚にあった新野親矩の取り成しもあって、弁明のために駿府に向かうことになります。

 しかしその道中である掛川において、今川家重臣であった掛川城城主の朝比奈泰朝の襲撃を受け、討死してしまいます。これが1562年(永禄5年)のことでした。

 このことにより、直虎を初めとする井伊家一族に害が及びそうになったのですが、母親の兄であり直虎の伯父にあたる新野親矩の擁護により、救われることになりました。
 直親の遺児であった井伊直政も保護されており、そのため新野親矩は井伊家最大の危機を救った人物として知られています。

井伊直平の死

 ところが井伊家の苦難は更に続きます。

 井伊家には曽祖父である井伊直平が健在であり、直政の後見人となったのですが、1563年(永禄6年)に今川氏真の命により、今川家より離反した天野景泰・天野元景親子の居城を攻めている最中に急死します。その死は毒殺であったともいわれています。

新野親矩の死

 また翌年の1564年(永禄7年)には、曳馬城主であった飯尾連竜の謀反により、井伊家は今川家に従って新野親矩らを大将に曳馬城攻めに参加します。

 しかし飯尾連竜の頑強な抵抗により、新野親矩を初め、井伊家重臣であった中野直由らが討死。
 これによって井伊家の家中を支えていた者も失って、井伊家は存続の危機に立たされました。

井伊直虎を名乗る

 この状況下に、龍潭寺の住職であった南渓瑞聞(井伊直平の次男・もしくは三男。井伊家当主不在の緊急時において、井伊家を率いていた可能性があるとされる人物。南渓和尚とも)により、直政は鳳来寺に移され(武田氏の駿河侵攻の際に、今川家からの命令で直政を殺し、小野政次が井伊谷の軍を率いて出兵させようとしたため、直政を出家させることで守った)、直虎を井伊家の当主に推薦されることになります。

 直虎は1565年(永禄8年)に、還俗して次郎法師から直虎と名前を改め、井伊家の当主となりました。

 この直虎のおんな城主誕生には、南渓和尚と直虎の父・直盛の妻であった祐椿尼によって決められたとされています。

 同年には龍潭寺への寄進状に自らが印を押して寺領を確認するなど公的文書を発行しており、領主として領域支配に取り組んでいたことが分かります。

 1566年には井伊直平の菩提を弔うために、福満寺に鐘を寄進したとされています。

徳政令を巡る混乱

 1566年、今川氏真は混乱する領国の安定化のために、徳政令を出しました。

 しかし直虎はこれ拒否し、二年間も発動されることはありませんでした。
 金を貸している方にとっては徳政令は許容できず、しかし借りている方としては出して欲しいというわけで、これが両者の対立に繋がっていきます。直虎は銭主方と結託して施行せず、拒否を続けます。

 しかし農民は今川氏を頼って徳政令の発動を迫り、井伊家の家老であった重臣の小野政次はそれを受けた要求派であり、直虎と対立を深めていきました。

 このような井伊家家中での対立は、今川氏にとって井伊家に介入する絶好の口実となってしまいます。

小野政次の専横

 1568年(永禄11年)、井伊家の居城であった井伊谷城が小野政次によって奪われてしまいます。

 この専横に対し、井伊谷三人衆である近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久が徳川家康の遠州攻めに際して離反。家康の力を借りることで実権を回復させます。

 1570年(元亀元年)には家康に嘆願して、小野政次のかつて井伊直親への讒言を咎めて処刑しました。

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武田信玄の侵攻

 1572年(元亀3年)、甲斐の武田信玄は西上作戦を開始。
 これによって井伊谷城は侵攻した山県昌景に明け渡すことになり、居城を再び失います。

 直虎は浜松城(曳馬城)に逃れました。

 その後、織田・徳川連合軍は侵攻する武田軍に対し、三方ヶ原の戦いや野田城の戦いなどで敗北を重ねます。

 しかし武田信玄の急死により、武田軍は撤退。
 これにより、直虎は井伊谷城を奪還することができました。

井伊直政を出仕させる

 直虎はかつての婚約者であった井伊直親の遺児である直政(虎松)を育て、1575年になり直政が15歳になると、徳川家に出仕させました。

 直政は家康の小姓として取り立てられ、井伊谷の領有を認められます。
 その後数々の戦功を立てて、戦国屈指の精鋭部隊である井伊の赤備えを組織し、徳川四天王の一人に数えられるほどになりました。

 そして1582年(天正10年)、直虎は死去しました。
 その墓は菩提寺である龍潭寺にあり、その隣には直親の墓があるそうです。

井伊直虎の生涯にまつわる信憑性

 直虎の生涯については、『井伊家伝記』と呼ばれる史料によるところが多く、しかしこの史料は誤伝を含む伝承を元にして記述されており、とても史実とは言い難いものであるといいます。

 例えば直虎の曽祖父である井伊直平は曳馬城12万石の城主となっており、これは完全に誤りです。
 また上記している南渓和尚が井伊直平の子であるという話も、誤伝である可能性が高いとされます。

 さらに直虎自身についても、婚約者である直親の父が自害させられ、信濃へ脱出した時の各々の年齢は、父・直盛が19歳で直親が10歳であり、その時に儚んで直虎が出家したことになっていますが、直盛が19歳であるのに直虎はいくつだったのかという疑問(生まれていたとしても、出家云々を自身で決めることのできる年齢ではないことは確か)が生じるため、創作されたものであるといわれています。

井伊直虎の男性説 井伊次郎とは

 井伊直虎が男であった可能性がある、という新しい史料が見つかり、井伊美術館が発表しました。
 これによると、直虎が井伊家の主家である今川家の家臣の息子であった、というのです。

 その史料は『守安公書記・雑秘説写記』という名の三冊の冊子です。
 どういう由来のものかというと、井伊家は後に彦根藩の藩主を務めるのですが、1640年(寛永17年)にその家老だった木俣守安がおばたちから聞いたり書いたりした内容を、江戸中期頃に子孫である木俣守貞が書き写したものであるとされています。

 この史料によると、当時の井伊谷が複数の武士による勝手な支配でまとまらないため、主君であった今川氏真が重臣・新野親矩の甥で、同じく今川家家臣の関口越後守氏経の子を井伊谷の領主とし、井伊次郎と名乗らせて治めさせた、という記述があるとのことでした。

 この井伊次郎なる人物は、1563年(永禄6年)頃から5年間ほど領主を務めたのではないかと推測されています。
 この史料には直虎の名前は無かったそうですが、地元に残る古文書には次郎直虎の名で花押があり、関口氏経の息子が井伊次郎であり、井伊次郎がいわゆる井伊直虎である可能性が高いといいます。

 この史料に書かれた字はそのほとんどが木俣守貞の字であると鑑定されており、信憑性もそれなりにあり、一方で信憑性の無い『井伊家伝記』が現在の通説になっていることからも、史実を再整理するべきだともいわれています。

 何にしろ、これでこれまでの通説が誤りで、直虎が男であった、と断定されたわけではありません。
 あくまで検証の余地が増えた、といったところでしょう。

井伊直虎 関係年表

 1536年 この頃、井伊直盛の娘として誕生。
 1544年 井伊直満・直義、自害。直親、信濃へ脱出。
     出家し、次郎法師と名乗る。
 1555年 井伊直親、今川家に復帰。
 1560年 桶狭間の戦い。父・直盛戦死。
 1562年 小野政次(道好)の讒言により、直親暗殺。
 1563年 井伊直平死去。暗殺か。
 1564年 新野親矩、曳馬城攻めで戦死。
 1565年 還俗して直虎と名を改める。
 1566年 福満寺に鐘を寄進。
 1568年 小野政次に井伊谷城を奪われる。
 1570年 小野政次を処刑。
 1572年 武田信玄の侵攻。井伊谷城を失陥。
 1573年 武田信玄死去。井伊谷城を奪還。
 1575年 井伊直政、徳川家に出仕。
 1582年 直虎死去。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
井伊直虎  71  34  72  73

 女性ということもあり武勇こそは低めですが、あとは70オーバーとかなり高めでバランスがとれています。
 信長の野望 創造に出てくる女性武将はどれも案外能力が高めに設定されているので、史実に即した評価かどうかはともあれ、使える武将なのは間違いないですね。

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