井伊直平 ~井伊家の苦難を見守った、一門の長老

井伊直平 ~井伊家の苦難を見守った、一門の長老

丸に橘 井伊直平とは戦国時代の武将であり、遠江国井伊谷の国人領主として今川家に仕えました。
 徳川四天王の一人として知られる井伊直政の曽祖父でもあります。

 井伊直平(いい なおひら)
 生年  1489年(延徳元年)もしくは1479年(文明11年)
 没年  1563年(永禄6年)
 主君  今川氏親⇒今川氏輝⇒今川義元⇒今川氏真
 親   父:井伊直氏
 子   直宗 直満 直義 直元(今川義元側室→関口親永室)
 養子  南渓瑞聞?

井伊家の苦難

 生年には諸説あり、1489年(延徳元年)もしくは1479年(文明11年)に生まれたとされています。

 父親は井伊谷城主であった井伊直氏。

 直平には直宗、直満、直義、直元と四人の子がいましたが、全て先立たれています。

 ・1541年(天文10年)に、井伊直元は井伊谷にて病死。
 ・1542年(天文11年)に、直平の跡を継いで井伊家当主となった井伊直宗は、今川義元に従って三河国田原城を攻め、戦死。
 ・1545年(天文13年)に、井伊直満・直義は井伊家家臣・小野政直の讒言にあい、今川義元によって殺害。

 家督は直宗の嫡子である井伊直盛が継いだものの、1560年(永禄3年)に起こった桶狭間の戦いによって、織田信長の奇襲により、主君・今川義元共々討死してしまいます。

 更には讒言により成敗された井伊直満の遺児、井伊直親は信濃国に逃れていたものの、その後許されて井伊谷に復帰しており、直盛の死によって井伊家の家督を継ぐことになります。

 しかし1563年(永禄5年)にこの直親もまた、かつて父を陥れた小野政直の子である小野政次(道好)の讒言にあい、釈明のために駿府に向かう道最中、今川氏真の命を受けた朝比奈泰朝の襲撃を受け、討死しました。

 直平自身は長命であったため、子や孫に次々に先立たれるという不幸を目の当たりにしながら井伊家を支えていくことになります。

 横死した直親には遺児がおり、これがのちの井伊直政になるのですが、まだ幼少であったため、1563年(永禄5年)直平が後見役となったようです。

 しかし同年に、今川家から離反した天野景泰・天野元景親子を攻めている最中、75もしくは85歳にて死去しました。

 このため井伊家は直盛の娘でひ孫にあたる井伊直虎が継ぎ、世に言う女城主になったといわれています。

 ちなみに龍潭寺二世住職である南渓瑞聞は直平の次男・もしくは三男とされてきましたが、近年発見された史料により、実子ではなく養子ではなかったのかと考えられているようです。

直平の毒殺説

 『井伊家伝記』によると、直平は曳馬城の城主だったことになっており、天野左衛門尉が武田に寝返ったことに対してこれを鎮圧する命を受け、その出陣の支度をしている最中に、家老であった家老の飯尾連竜の妻のお田鶴の方に毒茶を勧められ、毒死したとされています。

 しかし『井伊家伝記』自体の信憑性は無いに等しい史料(曳馬城の城主は飯尾連竜であり、直平が城主であったというのは明らかな誤り)であり、あくまで諸説のうちの一つでしかありません。

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