本多忠高 ~徳川家康金扇大馬印の由来となった、本多忠勝の父

本多忠高 ~徳川家康金扇大馬印の由来となった、本多忠勝の父

本多葵(丸に立ち葵) 本多忠高とは戦国時代の武将であり、松平氏(のちの徳川氏)の家臣です。
 徳川四天王として勇名を馳せた本多忠勝の父として知られています。

 本多忠高(ほんだ ただたか)
 生年  1526年(大永6年)
     もしくは1528年(享禄元年)
 没年  1549年(天文18年3月19日)
 別名  平八郎
 家紋  本多葵(丸に立ち葵)
 主君  松平清康⇒松平広忠
 親   父:本多忠豊
 兄弟  忠真
 妻   正室:小夜(植村氏義娘)
 子   忠勝

目次

略歴

 本多忠高は本多忠豊の長男として、1526年(大永6年)または1528年(享禄元年)に生まれたとされています。
 弟に槍の名手として知られる本多忠真がいます。

 忠高は父・忠豊と同じく、松平清康や松平広忠に仕えました。

 1547年(天文16年)、松平信孝による反乱が起こった際には出陣。

 翌1548年(天文17年)には尾張国の織田信秀が三河国に侵攻し、これに対して主君・広忠と今川氏重臣・太源雪斎はこれを迎撃。
 小豆坂において迎え撃ち、この時に忠高も戦い、このいわゆる小豆坂の戦いにおいて勝利を収めました。

 ところが1549年(天文18年)、主君であった松平広忠が岡崎城にて岩松八弥によって暗殺されるとう、大事件が発生します。

 これにより三河国は動揺し、三河の国衆が尾張の織田氏に寝返ることを警戒した今川義元は、太原雪斎に命じて三河にあった織田氏拠点・安祥城を攻め、いわゆる安祥合戦が勃発します。

 太源雪斎を将とする1万の今川・松平連合軍は安祥城攻略を開始。
 先鋒たる松平勢の奮戦により、三の丸、二の丸を落として本丸に迫るも、守将であった織田信広捕縛を焦った忠高は深入りし過ぎ、敵の矢に当たって討死しました。

 この時、子の忠勝はまだ幼少であったため、忠高の弟・忠真によって育てられることになります。

 また、のちに忠勝が仕えることになる徳川家康が使用した馬印のうち、金扇の大馬印は忠高に由来すると、幕府の古記録である『柳営秘鑑』には記されているようです。

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