服部正就 ~大坂の陣で消息を絶った、3代目服部半蔵

服部正就 ~大坂の陣で消息を絶った、3代目服部半蔵

源氏車に並び矢筈  服部正就とは戦国時代の武将であり、徳川氏家臣です。
 服部半蔵の名でよく知られている服部正成の長男であり、自身もまた半蔵の名で呼ばれました。
 のちに失脚し、大坂の陣において行方不明になったとされています。

 服部正就 (はっとり まさなり)
 生年  1565年(永禄8年)
 没年  1615年(慶長20年5月7日)
 別名  半蔵 源左衛門
 家紋  源氏車に並び矢筈
 主君  徳川家康
 親   父:服部正成
 兄弟  正重 正広
 妻   松尾(松平定勝長女)
 子   正幸 正辰

来歴

 服部正就は服部正成の長男として、1565年(永禄8年)に誕生しました。

 父・正成が死去すると、家督を相続。

 この際に服部半蔵の名を襲名し、さらには与力7騎に伊賀同心200名の支配を引き継ぐことになります。

 ところがあくまで徳川氏より預けられていただけの伊賀同心を、自身の家臣のように扱ったことが原因で反発を招き、1605年(慶長10年)に四谷長善寺に伊賀同心達はこもって正就の解任及び、自身らの与力への昇格を訴える騒動が発生していまいます。

 この結果、正就は役を解かれることとなりました。

 事件後、このことを逆恨みした正就は、訴えを起こした伊賀同心の中の首謀者10名に対し、死罪を要望します。
 その首謀者のうち、2名が逃走してためこれを捜し出した上で斬殺したものの、これが別人であったことが発覚し、そのため正就は完全に失脚することとなりました。

 結果、正就は正室の父である松平定勝に預けられることになります。

 これにより地位を失った正就でしたが、1614年(慶長19)から1615年(慶長20年)にかけて、徳川氏と豊臣氏の間に大坂の陣が勃発します。

 これを名誉挽回の機会と捉えた正就は、徳川家康の六男であった松平忠輝に従って、従軍。

 しかしこの戦いの中で行方不明になったとされています。
 史料によっては天王寺・岡山の戦いにおいて討死したともいわれています。

その後の服部氏

 大坂の陣を最後に正就の消息は途絶え、服部家は弟の服部正重が継承し、服部半蔵の名も引き継ぎました。

 しかしその後、大久保長安事件が発生すると、正重もまた失脚。

 最後は松平定綱に召抱えられ、桑名藩にて服部半蔵家は存続しました。

 ちなみに正就の子である正辰は、その母が松平定綱の姉であったこともあり、同じく桑名藩に仕え、その血筋から服部本家よりも優遇されたといわれています。

正就の行方不明について

 大坂の陣において正就が行方不明になったことについては、異説が存在します。

 ひとつは逃亡し、帰農して75歳まで生きたというもの。
 もうひとつは、弟・正重に半蔵の名を襲名させるため、伊賀同心によって暗殺されたというもの。

 などと諸説ありますが、確たるものはなく、また合戦において将が遺体を含めて行方不明になることはままあることのため、あくまで俗説といった方がよいかもしれません。

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