後藤又兵衛(基次) ~黒田八虎にして大坂城五人衆

後藤又兵衛(基次) ~黒田八虎にして大坂城五人衆

 本名は後藤基次(ごとう もとつぐ)といい、一般的に知られている又兵衛は通称です。黒田官兵衛やその息子の黒田長政、最後には豊臣秀頼に仕え、軍功を挙げました。黒田二十四騎や大坂城五人衆の一人ともされています。

 後藤又兵衛(ごとう またべえ)
 生年  1560年(永禄3年)
 没年  1615年(慶長20年)
 改名  正親⇒氏房⇒正次⇒年房
 別名  弥八朗 又兵衛
 主君  黒田考高⇒仙石秀久
     ⇒黒田考高⇒黒田長政⇒豊臣秀頼
 親   父:後藤基国 母:神吉頼氏女
 兄弟  基秀 基景
 妻   先妻:不詳 後妻:三浦四兵衛女
 子   一意 基則 正方 又市 基芳
     三浦為勝女(野村祐直室)
     女(山中藤太夫室) その他

黒田家に仕える

 元々は黒田家に仕えていたため、その幼少時や青年期については、以前放映された大河ドラマ『軍師官兵衛』にも描かれていました。幼い頃、黒田孝高(官兵衛)が有岡城にて荒木村重に幽閉された際に、伯父である藤岡九兵衛が黒田家家臣一同の誓紙への署名を拒否したことで、その一族は追放となりました。しかしその後再び黒田家に仕えるようになります。

 黒田家が九州に領地を得てから、城井氏との戦いにおいて、黒田長政に退却を薦めるも聞き入れられず、敗北しますが、この辺りについても『軍師官兵衛』にて描写がありましたね。その後朝鮮出兵にも参加し、軍功を挙げます。

 そして関ヶ原の戦いでは、黒田家は東軍として参加したため、又兵衛も西軍である石田三成と戦うことになります。この戦いで三成配下の大橋掃部(おおはし かもん)と一騎打ちの末、これを討ち取る武功を挙げました。

黒田家を出奔

 そんな感じで黒田家重臣としての地位を築いてていく又兵衛ですが、黒田如水(官兵衛)の死後、黒田家を出奔することになります。どうして出奔かといえば、黒田家は細川家と仲が悪く、細川家との付き合いを家臣に禁じていたにも拘らず、又兵衛が従わなかったため追放した、という説があるようです。

 ともあれ出奔した又兵衛は細川家を頼るも、これによって黒田家と細川家が一触即発の状態になり、結局又兵衛は細川家を退去することになりました。その後彼の才を惜しんだ大名家から声がかかるも、黒田長政は「奉公講(ほうこうかまい」という措置を行い(武士の対する刑罰の一つで、出奔した家臣を他家が召抱えないよう釘を刺す回状のこと。切腹に次ぐ重刑)浪人生活を余儀なくされたようです。

大坂の陣

 そして大坂の陣では、大野治長の誘いを受けて、大坂城に入城。大野治長や大野治房を補佐し、徳川家康からも警戒される名望家でした。

 大坂冬の陣においては鴫野・今福方面を守備し、木村重成と協力して幕府方の佐竹勢や上杉勢と戦います。
 
 しかし夏の陣の道明寺の戦いにおいて、水野勝成率いる幕府軍を相手に孤軍で奮戦するも、援軍の到着が遅れて10倍する敵兵を前に、突撃を敢行。討ち死にします。享年は56。

 大坂の陣や関が原の戦いで敗戦した武将によくある伝承ですが、実は夏の陣では死なず、生き延びたという説が又兵衛にもあります。真偽はともあれ、それだけ当時から人気のあった人物だったことがうかがえます。

 また面白い講談もあり、大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで真田信繁によって家康本陣が突き崩され、家康が逃げ出したというのは有名な話ですが、それを又兵衛が討ったというものがあったりします。ついでに堺の南宗寺には家康の墓があるとか。ちなみにこのお墓、又兵衛に討たれたという伝説に基づいて、昭和42年に建てられたのだそうです。なのでお墓は小綺麗で、まだまだ歴史を感じさせるものでは無さそうです。

後藤又兵衛 関係年表

 1560年 後藤基国の次男として誕生。
 1578年 仙石秀久に仕える。
 1587年 長岩城攻めに参加。
 1592年 朝鮮出兵に従軍。
 1593年 第二次晋州城攻防戦に参加。
 1600年 関ヶ原の戦い。大橋掃部を討ち取る。
 1606年 黒田家を出奔。
 1614年 大坂の陣。大坂城に入る。
 1615年 道明寺に戦いで討死。享年56。 

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
後藤又兵衛  80  83  63  30

 武辺一辺倒な能力値。出奔がらみのごたごたがあったせいか、政治はかなり低めの設定のようですね。

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