今川良真(玄広恵探) ~花倉の乱で敗れた、今川義元(梅岳承芳)の庶兄

今川良真(玄広恵探) ~花倉の乱で敗れた、今川義元(梅岳承芳)の庶兄

足利二つ引両 今川良真とは戦国時代の武将であり、花倉の乱で弟である今川義元と争い、敗れた人物です。
 出家していたため、玄広恵探の名でも知られています。

 今川良真(いまがわ ながさね)
 生年  1517年(永正14年)
 没年  1536年(天文5年)
 別名  玄広恵探(げんこう えたん)
 親   父:今川氏親 母:福島正成の娘
 兄弟  氏輝 彦五郎 義元 氏豊

花倉の乱

 1517年(永正14年)に今川氏親の三男として生まれました。
 今川義元とは母親が違い、今川氏の有力家臣であった福島正成の娘を母としており、義元の異母兄にあたります。

 氏親には長男である氏輝が嫡男としてあり、次男である彦五郎もあったため、三男であった良真は弟の梅岳承芳(今川義元)や象耳泉奘と共に早くに出家し、玄広恵探と名乗りました。

 1536年(天文5年)に、父の跡を継いで当主となっていた兄・今川氏輝と次男・彦五郎が相次いで急死する事態が起こります。

 氏輝は病弱であったとされていますが、しかし二人の兄弟が同日に死去することは考えにくく、毒殺や自殺説など、二人の死には謎とされていました。

 ともあれこのような事態に際し、氏親の正室であった寿桂尼が自身の子である梅岳承芳を還俗させて今川義元と名乗らせ、家督を継がせようとします。

 ところがこの動きに反対したのが母方の福島氏であり、この福島氏に擁されて玄広恵探は挙兵し、花倉城や方ノ上城に拠りました。
 この時に、一説では名を玄広恵探から今川良真に改めたとされています。

 こうしていわゆる花倉の乱が勃発。

 しかし対する義元は相模の後北条家の支援を受け、今川家臣である岡部親綱が方ノ上城を攻撃し、これを攻略します。
 そして良真の篭る花倉城へと攻めかけ、良真は必死の抵抗をするも多勢に無勢で支えきれずに逃亡し、瀬戸谷の普門寺で自刃しました。

 これにより今川義元の家督相続が確定、今川家はさらにその勢力を拡大させていくことになるのです。

スポンサードリンク

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
今川良真

 54  68  41  42

 ぱっとしない能力ではありますが、武勇は義元より上だったりします。 

人物カテゴリの最新記事