馬場信春 ~馬場美濃守手前の働き、比類なし

馬場信春 ~馬場美濃守手前の働き、比類なし

馬場信春

花菱 馬場信春とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣です。
 武田信虎武田信玄・武田勝頼と武田三代に仕え、後代の武田四天王の一人として名を残しました。
 長篠の戦いにて織田軍と戦い、戦死しました。

 馬場信春 (ばば のぶはる)
 生年  1515年(永正11年)
 没年  1575年(天正3年6月29日)
 改名  教来石景政⇒馬場信房⇒信春
 別名  信政 信武 氏勝
 家紋  九曜
 主君  武田信虎⇒武田信玄⇒武田勝頼
 親   父:教来石信保
 兄弟  信頼
 子   昌房 娘(鳥居元忠室)
     娘(真田信尹室)

馬場氏

 信春の生年は、1514年(永正11年)もしくは1515年(永正12年)といわれています。

 馬場氏は摂津源氏の流れをくみ、美濃土岐郡に土着した一族でしたが、のちに甲斐国教来石村に移り住み、教来石氏を名乗りました。

 信春ももとは教来石景政と名乗り、のちに馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名し、さらに名を改めて馬場信春と名乗ったとされています。

武田信虎時代

 信虎の代より、武田氏に仕えました。

 信虎の子・武田晴信の初陣の際には信春の参戦し、海ノ口城攻めにて敵将・平賀源心を討ちとる功を挙げます。

 また1541年(天文10年)に行われた、信虎追放計画にも参加し、信玄の家督継承に尽力しました。

武田信玄時代

 武田信玄が甲斐武田氏国主となると、信玄は積極的に信濃攻めを行い、信春もこれに従って武功を挙げます。

 これらの功により、1546年(天文15年)に馬場虎貞が武田信虎に殺害されて途絶えていた甲斐武田氏譜代の馬場氏の名跡を継ぐことを命じられ、名を改めました。
 この時に侍大将に出世しています。

 その後も功を挙げ、1559年(永禄2年)には譜代家老衆の一人として列せられ、1561年(永禄4年)に起きた川中島の戦いにおいては、上杉軍の背後を襲うための別働隊の指揮を任されました。

 1562年(永禄5年)になると、鬼美濃と称された猛将である原虎胤の引退に伴い、美濃守を名乗ることを許され、馬場美濃守信春と改名したとされています。

 1568年(永禄11年)には信玄による駿河攻めに参加。

 翌年の1569年(永禄12年)に起きた三増峠の戦いにおいては北条軍と戦い、武功を重ねます。

 また西上作戦の最中、三方ヶ原の戦いに参戦して徳川軍を大敗せしめ、浜松城に追い込むなど功を挙げました。

武田勝頼時代

『長篠合戦図屏風』
 西上作戦の途中において、主君であった武田信玄が病死。

 後を継いだ武田勝頼の補佐として、山県昌景と共に筆頭重臣としてこれを支えます。

 しかし勝頼は信玄以来の老臣を疎み、重用されることはありませんでした。

 そして1575年(天正3年)には武田氏の運命を決定づける長篠の戦いが勃発。

 信春は昌景らと共に撤退を勝頼に進言するものの受け入れられず、決戦は行われることとなります。

 いざ戦闘となると、信春は武田軍右翼に配置。

 しかし武田軍の突撃に対し、織田・徳川連合軍の防御を突破できず、数で劣る武田軍は次第に劣勢となり、やがて崩壊。

 大敗した武田軍は退却し、殿軍を務めて信春は勝頼の退却を見届けた上で反転し、織田軍と戦った上で討死しました。享年61。

 この時の活躍ぶりは『信長公記』にも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されるものであったといいます。

人物評価

 経歴からも分かるように、信春は数多くの戦に出陣し、その数は70にも及んだとされています。

 そして最後の長篠の戦いに至るまで、かすり傷一つ負わなかったとされ、不死身の馬場美濃とも評されました。

 戦上手であった他に、深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城といった支城を築城したことでも知られ、築城の名手ともされています。
 この築城に関しては、山本勘助より教授されたともいわれているようです。

スポンサードリンク

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
馬場信春  88  85  88  72

 武田家臣団の中でも、有能な一人。
 さすがは武田四天王。
 文武両面の活躍が期待できますね。

甲斐武田家カテゴリの最新記事