浅井久政 ~外交において浅井氏を存続させた、浅井氏2代目当主

浅井久政 ~外交において浅井氏を存続させた、浅井氏2代目当主

浅井久政

三つ盛亀甲に花菱 浅井久政とは北近江の戦国大名であり、近江浅井氏の2代目当主です。
 織田信長の義弟である浅井長政の父親としても知られています。

 浅井久政(あざい ひさまさ)
 生年  1526年(大永6年)
 没年  1573年(天正元年)
 改名  猿夜叉⇒久政
 別名  新九郎
 主君  六角義賢
 家紋  三盛亀甲に花菱
     (みつもり きっこうに はなびし)
 親   父:浅井亮政 母:尼子馨庵
 妻   小野殿(井口経元)
 子   長政 政元 政之 
     岡崎安休 治政 阿久姫
     大弐局(六角義実室
     京極マリア(京極高吉室)
     養女:近江の方(斎藤義龍室

六角氏への臣従

浅井亮政の死と家督相続

 1526年(大永6年)、浅井亮政の長子として生まれます。

 母親は亮政の側室であった、尼子馨庵。
 馨庵は近江尼子氏の出であり、戦国時代に中国地方に割拠した出雲尼子氏は、庶流にあたるとされています。

 1542年(天文11年)に、父・亮政が死去。

 久政は嫡子であったものの、生前の亮政は田屋明政(久政の異母姉の婿)に家督を譲ろうとしていたともされ、久政の家督相続を承服せずに反乱を起こしたともされています。

 このことは浅井家中に禍根を残すことになりました。

 もっとも反乱を起こしたとされる田屋明政ですが、一説では争いはなく、久政への家督相続は問題無く行われた、というものもあるそうです。

久政の外交政策

 久政は父・亮政に比べて武勇はいまひとつだったようで、南近江の六角氏に次第に圧迫され、ついには臣従することで浅井氏の存続を図りました。

 嫡男であるのちの長政に、六角家当主である六角義賢の一字をもらい、賢政と名乗らせたり、また六角家家臣の平井定武の娘を娶らせるなどして、一貫して従属姿勢を取り続けます。

長政への家督相続と久政の隠居

 この久政の外交政策を弱腰と不満を抱く家臣は徐々に増え、1560年(永禄3年)に長政が六角氏を相手に野良田の戦いで大勝して六角氏から独立すると、長政に浅井氏の希望をみた家臣は久政に長政への家督相続を迫り、隠居させられることになりました。

 久政は琵琶湖に浮かぶ島である竹生島に、一時的に幽閉されることになります。

織田氏との抗争

 ただしこのような状態であっても久政の影響力は残っていたようで、父の代に築いた朝倉氏との同盟を維持をし続け、織田氏との新たな同盟には反対し続けていたようです。

 このように久政に発言力が残っている状態で、浅井氏の盟友・朝倉氏と、新たな同盟相手であった織田氏が対立。
 板ばさみとなった浅井氏は、久政が強硬に朝倉氏との関係維持を訴え続け、ついには長政が折れる形で織田氏と敵対する道を選び、浅井・朝倉連合として織田氏と抗争することになります。

 金ヶ崎の戦いをもって織田信長を裏切った浅井氏は、その後の姉川の戦いに敗北するものの、志賀の陣などで織田氏を追い込んだりと、一進一退が続きました。

小谷城の戦い

 しかし1573年(天正元年)、盟友・朝倉氏の居城であった一乗谷が陥落したのち、すぐさま浅井氏居城であった小谷城への攻撃が始まります。

 必死の抵抗もむなしく、久政の篭る小丸は長政の篭る本丸と分断され、ついには覚悟を決めた久政は、浅井惟安と本鶴松大夫と盃を交わして切腹。

 介錯は惟安が務め、その惟安の介錯は本鶴松大夫が務め、本鶴松大夫は主君と同じ座敷では恐れ多いとして、庭に出て自刃して果てたとされています。

久政の評価

 父・亮政や子の長政に比べて暗愚とされる久政ですが、現代においては再評価されつつあります。

 まず弱腰外交とされた六角氏への従属ですが、当時の六角氏は六角定頼という名君がおり、非常に勢いがある状態でした。
 これには勇猛であった父・亮政ですら如何ともし難く、生前の亮政は幾度も越前や美濃に逃亡しては再起するという状況だったといいます。

 武で劣る久政が武をもって六角氏を制することは難しく、逆に従属によって庇護を得ることで領国経営に専念することができ、浅井氏の力の底上げをすることができたともいえます。

 それが実ったのが次代であり、力をつけることができた浅井氏は長政によって、定頼の子である六角義賢を打ち破り、改めて独立を果たすことになるのです。

スポンサードリンク

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
浅井久政  34  38  45  67

 一応少しは内政が評価されてか、政治がそれなり。
 武の方は親や子とは似ても似つかぬ能力です。

浅井家カテゴリの最新記事