阿閉貞征 ~浅井氏滅亡の遠因となった浅井氏家臣、山本山城主

阿閉貞征 ~浅井氏滅亡の遠因となった浅井氏家臣、山本山城主

 阿閉貞征とは戦国時代の武将であり、北近江の戦国大名・浅井氏に仕えた家臣です。
 浅井氏と織田氏の抗争の際には主家を裏切り織田方に降り、浅井氏滅亡の原因と一つとなったといわれています。
 後に織田信長が本能寺の変で横死するに至った明智光秀の謀反に加担し、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れると、貞征を初めとする阿閉一族は処刑され、滅亡しました。

 阿閉貞征(あつじ さだゆき)
 生年  1528年(享禄元年)
 没年  1582年(天正10年)
 改名  万五朗⇒貞征
 別名  長之 貞秀
 主君  浅井長政織田信長⇒明智光秀
 子   貞大

浅井氏家臣として

阿閉氏

 阿閉貞征は1528年(享禄元年)に誕生。

 阿閉氏はもともと北近江伊香郡の国人だったといわれています。

 北近江は京極氏によって支配されていましたが、浅井亮政の下克上により浅井氏が京極氏に代わって支配するようになりました。
 阿閉氏はこれに従い、浅井氏に仕えるようになったとされています。

 阿閉貞征は浅井家中にあって重臣といえる地位にあり、北近江の要害であった山本山城主として、これを守っていました。

姉川の戦い

 浅井長政の代になり、浅井氏が尾張の織田氏と対立するようになると、1570年(元亀元年)に姉川の戦いが勃発します。

 貞征は手勢1,000を率いてこれに参加し、磯野員昌、浅井政澄に続いて三段目に布陣したといわれています。

 姉川の戦いに浅井・朝倉連合軍は敗退するものの、その後も織田氏との抗争は続き、居城であった山本山城も織田方の攻撃を受けるもこれを撃退するなど、活躍しました。

織田氏家臣として

浅井氏の滅亡

 織田氏との抗争が続く中、1573年(天正元年)に阿閉貞征は突如として浅井氏を裏切り、敵方を山本山城に引き入れて織田氏に寝返ります。

 これにより浅井氏居城であった小谷城は孤立。
 これが浅井氏滅亡の遠因となりました。

 貞征は降伏後、時をたたずして織田方として参陣。
 浅井氏の同盟国であった越前の朝倉攻めのために出陣し、先手を務めます。

 刀根坂の戦いで大敗した朝倉義景は一乗谷に逃亡し、その後、一門の朝倉景鏡に裏切られて自刃し、朝倉氏は滅亡。

 返す刀で取って返した織田軍は小谷城を包囲し、これを滅亡に追い込みました。

羽柴秀吉の与力となる

 浅井氏が滅亡すると、北近江は羽柴秀吉に与えられました。

 貞征は本領を安堵され、秀吉の与力になったとされています。

 1575年(天正3年)に起きた越前一向一揆に対し、秀吉と共に参戦。

 ところが次第に秀吉との間に亀裂が生じていったようで、不満を募らせていったようです。

 そういった影響もあってか、秀吉は1577年(天正5年)に中国攻めのために播磨国へと向かうものの、阿閉親子はこれに従わず、近江に留まって織田信長の旗本となっていました。

本能寺の変

 1582年(天正10年)、織田氏重臣・明智光秀による謀反である、本能寺の変が勃発。

 阿閉貞征は光秀に加担し、羽柴秀吉の居城であった長浜城を占拠します。

 ところが山崎の戦いで明智光秀は羽柴秀吉に敗れて光秀の天下が三日天下で終わると、阿閉氏は秀吉に捕らえられ、その一族は処刑されました。貞征は磔刑に処されたといわれています。

阿閉貞征の家臣

 阿閉貞征には浅井氏滅亡後、一時的ではありますが、名将・藤堂高虎が仕えていたことがありました。

 また槍の名手とされる渡辺勘兵衛(渡辺了)もはじめ貞征に仕え、母衣衆となり、貞征の娘を娶ったとされています。

スポンサードリンク

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
阿閉貞征  17  43  44  34

 浅井氏家臣にあって、なかなかに低い能力です。
 裏切り続けた上の末路であるが故かのような、扱いですね。
 こんな能力だったからかどうは分かりませんが、藤堂高虎や渡辺勘兵衛が辞してしまったかと思うと、残念なものです。

浅井家カテゴリの最新記事