足利義昭 ~織田信長を窮地に陥れた、室町幕府最後の征夷大将軍

足利義昭 ~織田信長を窮地に陥れた、室町幕府最後の征夷大将軍

足利義昭

足利二つ引両 足利義昭とは室町幕府第15代将軍であり、最後の室町幕府将軍としても知られています。

 戦国時代の三英傑の一人、織田信長を信長包囲網によって追い詰めるも、これを打倒することは叶わず、京を追われて室町幕府は滅亡しました。

 足利義昭(あしかが よしあき)
 生年  1537年(天文6年11月13日)
 没年  1597年(慶長2年8月28日)
 改名  足利千歳丸⇒一乗院覚慶(法名)
     ⇒足利義秋⇒足利義昭⇒昌山道休
 家紋  足利二つ引両
 親   父:足利義晴
     母:慶寿院(近衛尚通の娘)
 兄弟  義輝 周暠
 妻   正室:無し
     側室:さこの方(宇野氏)
        小宰相局(大河内氏)
 子   義尋 一色義喬?
     永山義在? 矢島秀行?

略歴

 足利義昭は1537年(天文6年11月13日)に、足利義晴の次男として誕生しました。

 跡目争いを避ける意味もあり、慣例によって仏門に入って覚慶と名乗ります。

 しかし兄であり将軍であった足利義輝が、三好三人衆によって暗殺される事件が発生し、義昭は幕臣らの助けによって奈良から脱出し、還俗して義秋と名乗ることになります。

 いったんは越前の朝倉義景を頼るもやがて美濃の織田信長のもとへと向かい、これに擁される形で上洛を果たし、第15代室町幕府将軍に主任しました。

 ところが信長と対立するようになると、朝倉義景や武田信玄らと呼応し、信長包囲網を築いてこれを追い詰め、信長を窮地に陥れます。

 しかし武田信玄の死を契機に包囲網は崩れ、やがて義昭は京を追われて備後国へと下向することになり、これをもって室町幕府は滅亡しました。

 その後、信長は本能寺の変にて横死し、そののちも義昭は将軍としてありましたが、豊臣秀吉が台頭して豊臣政権を確立させた後は将軍職を辞し、秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められた上で、余生を全うすることになります。

永禄の変と流浪

足利義輝暗殺

 足利将軍家には跡目争いを避けるために、嗣子以外の息子を出家させる慣習があり、次男であった義昭もまたその慣習に従って、1542年(天文11年)に外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門に入り、覚慶と名乗りました。

 覚慶は興福寺で権少僧都にまで栄進し、高僧として人生を歩むはずでしたが、1565年(永禄8年)に、永禄の変が勃発したことで大きな岐路に立たされることになりました。

 この永禄の変において、室町幕府第13代将軍・足利義輝をはじめとして、母の慶寿院、弟の周暠が松永久通や三好三人衆らによって暗殺されるという大事件が発生し、覚慶もまた久通によって捉えられ、興福寺に幽閉された上で監視されることになります。

奈良脱出

 命の危機が迫るなか、兄・義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝といった面々に助けられて脱出。

 奈良から伊賀国へ逃れ、甲賀郡の和田城に入った覚慶ら一行は、ここで足利将軍家当主になることを宣言します。

 その後、野洲郡矢島村を在所とし、上杉謙信らに室町幕府再興を依頼。
 また謙信や武田信玄、北条氏政に対して和睦するよう命じるなど、活動しました。

 この矢島御所において1566年(永禄9年)、覚慶は還俗して足利義秋と名乗ります。

 義昭は矢島において、三管領家の一つ、河内国の畠山高政や関東管領・上杉謙信、能登国守護の畠山義綱らと連絡を取り、上洛の機会を伺っていたとされています。

 また矢島を在所とすることを許可していた六角義賢もまた、当初上洛に積極的だったようで、和田惟政に命じる形で近江の浅井長政と尾張の織田信長の妹・お市の婚姻を働きかけるなどしました。

 この時の義昭としては、それぞれ敵対していた六角氏や浅井氏、斉藤氏や織田氏、武田氏や北条氏、上杉氏らを和解させた上で、彼らの協力のもと、上洛を目指すというものだったと考えられています。

 義昭の働きかけは功を奏し、和田惟政と細川藤孝の説得を受けた織田信長と斉藤龍興は和解し、信長は美濃を通って北伊勢、南近江を経由して上洛を目指すことになります。

 このような義昭の行動を察知した三好三人衆の一人、三好長逸が3,000の兵と共に矢島御所を襲撃。
 これに対し奉公衆らの奮戦によって、辛うじて撃退に成功しました。

 このような中、信長は約定通りに兵を挙げ、上洛を開始。

 しかし斉藤龍興はこれを襲撃し、信長は尾張へと撤退を余儀なくされます。

 また六角義賢と六角義治親子が三好三人衆と内通したという情報を掴んだ義昭は、六角領から出て若狭国の武田義統(義昭の妹の婿)を頼って流浪することになりました。

 この時、六角氏と斉藤氏がほぼ同時に離反したことについて、三好三人衆による調略であろうことが推測され、巻き返しをされたことが窺えます。

 若狭国の武田氏は、かつての応仁の乱に際しては東軍副将を務めるなどしてその力を振るっていたものの、当時は義統自身と息子との家督争いなどや重臣の謀反などに遭っており、国内は不安定でとても上洛できる力や余裕はありませんでした。

 こういった情勢の中、義昭は若狭から隣国の越前の朝倉義景を頼ることとし、上洛するための助力を要請します。

朝倉義景を頼る

 義景は義昭が奈良脱出を手引きした張本人であったのではないか、という説もある一方で、越前には足利将軍家に連なる鞍谷氏がおり、朝倉氏の客将として遇されており、婚姻関係を重ねていました。

 鞍谷御所嗣知の息女は義景の内室にもなっており、影響力を持っていたとされます。

 このようにすでに足利氏に連なる名家を取り込んでいた義景は、仏門から還俗した義昭を奉じての上洛を積極的に行う気は無かったようで、義昭の越前滞在は長期に及ぶこととなりました。

 一方で義昭は、朝倉義景よりも上杉謙信を頼りにしていたとされ、しかし謙信は武田信玄と対立し、国内は不安定であったため、上洛は不可能な状態だったといいます。

 このように義昭が手をこまねいている間に、三好三人衆は足利義栄を擁立し、1567年(永禄10年)に第14代室町幕府将軍に叙任されてしまいます。

 翌1568年(永禄11年)、義秋の秋の字は不吉であるとして、元服の際に義昭と改名。
 この時の加冠役は朝倉義景が務めたとされています。

 義昭は義景が上洛の兵を挙げないこともあって、義景家臣であった明智光秀の仲介により、織田信長を頼って尾張国へと移ることになります。

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室町幕府再興

上洛

 1568年(永禄11年)、義昭は織田信長と浅井長政の軍によって警護され、上洛を開始しました。

 道中、六角氏の抵抗に遭ったもののこれを退け、進軍。
 今日へと到着します。

 これをみた三好三人衆は京より撤退。
 畿内で抗戦するも敗れて畿内での勢力を失い、阿波へと逃れます。

 また14代将軍であった足利義栄は以前から患っていた腫物が悪化し、そのまま病死。

 また松永久秀も信長に臣従したことで障害が無くなり、義昭は朝廷から将軍宣下を受け、第15代室町幕府将軍に就任しました。

 将軍となった義昭は、まず近衛前久を足利義栄の将軍襲職に便宜を図ったという容疑で追放します。
 代わって二条晴良を関白職に復職させました。

 ただ近衛前久の近衛家は、将軍の御台所を輩出してきた家系であったものの、この追放によって近衛家との関係が冷え込み、義昭は正室を迎えることができなくなったとされています。

 また義昭は幕府管領家である細川昭元や畠山昭高、関白の二条昭実に偏諱を与え、領地を安堵しつつ政権の安定を図りました。

 さらに山城国の御料所を掌握し、守護を置かずに三淵藤英を伏見に配置してこれを治めます。

本圀寺の変

 当時、義昭は本圀寺を仮御所としていました。
 1569年(永禄12年)になると、信長は明智光秀を中心とする近江や若狭の国衆に託し、領国へと帰還してしまいます。

 これをみた三好三人衆は逆襲を企図し、信長に敗れて流浪していた斎藤龍興らも加わって、本圀寺の義昭を襲撃。
 これがいわゆる本圀寺の変、または六条合戦といわれるものです。

 明智光秀ら織田勢や、若狭国衆の山県源内や宇野弥七は本圀寺に立て篭もって徹底抗戦し、三好勢の先陣・薬師寺貞春の侵入を阻み、これで時間を稼いだことで細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重といった面々が急報を聞きつけ、織田勢の後詰として参陣。

 不利を悟った三好勢は退却するも追いつかれて合戦に及び、足利・織田勢の勝利に終わりました。

烏丸中御門御第(旧二条城)

 この時の本圀寺の脆弱性を危惧した信長が、烏丸中御門御第(旧二条城)の造営を開始することとなります。

 義昭の将軍邸は二重の水堀と高い石垣によって構築され、平城とも呼んで差し支えのない防御機能を備えたものであり、これまで室町幕府に代々仕えてきた奉行衆や旧守護家などの者が参勤し、ついに室町幕府再興は果たされることとなりました。

信長包囲網

信長への恩賞

 幕府再興を果たした義昭は、織田信長に対し「室町殿御父」の称号を与えることでまず報いました。

 信長自身は上洛の恩賞として、尾張・美濃領有の公認の上、堺を含む和泉国の支配を望み、義昭は信長を和泉国守護に任命します。

 さらに義昭は信長に対し、管領代か管領、さらには副将軍の地位の推挙を申し入れます。
 しかしこれを信長は受けず、弾正忠への推挙のみ受けました。

 信長以外の諸将に対しても論功行賞が行われており、池田勝正を摂津守護に、畠山高政、三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任命します。

大河内城の戦い

 幕府再興を果たした義昭でしたが、もともと武力による天下統一を狙っていた信長とは意見の相違があり、二人の関係は徐々に悪化していきました。

 この頃、信長は伊勢の北畠氏を攻めた大河内城の戦いが勃発します。
 しかし信長は70,000の兵をもってしても、北畠軍約8,000の篭る大河内城を落とせず、義昭に和睦の仲介を要請。
 義昭はこれを受けて、和睦を成立させました。

 この合戦の影響として一説によると、信長が次男である茶筅丸(織田信雄)を北畠氏の養子にすることを強要したことで義昭の不快感を招き、両者の対立のきっかけになった可能性がある、ともいわれているようです。

殿中御掟

 また信長は、将軍の権力を制限するために殿中御掟9か条という掟書を義昭に認めさせました。

 この9ヶ条の他、のちに7ヶ条を、さらに5ヶ条を追加して殿中御掟21か条を認めさせ、義昭と信長の不和を表面化させたといわれている一方で、決定的な悪化をもたらすものではなかったともいわれています。

 実際、のちの浅井長政や朝倉義景、顕如、三好三人衆らによる第一次信長包囲網が作られた際には、義昭は信長と共に行動していることからも、両者の関係が冷却化し始めたとはいえ、決定的でなかったことが窺えます。

第一次信長包囲網

 1570年(元亀元年)、姉川の戦いが勃発し、織田・徳川連合軍は、朝倉・浅井連合軍に勝利。

 信長はすぐに義昭と共に三好三人衆を討つべく出陣し、野田城・福島城の戦いが行われました。

 しかし石山本願寺や、姉川の戦いで敗れたもののまだ余力のあった朝倉義景、浅井長政が挙兵。

 これを受けて信長は近江へと引き返すも、朝倉・浅井連合軍は延暦寺に立て篭もり、さらに伊勢一向一揆などが蜂起して窮地に陥った信長は、義昭に和睦の調停を要請。

 義昭は関白・二条晴良を通じて朝倉義景との和睦を実現させています。

第二次信長包囲網

 この頃、信長に対して不満を募らせていた義昭は、上杉謙信や毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を下し、信長包囲網を形成。

 これには朝倉義景、浅井長政、延暦寺、松永久秀、三好三人衆、三好義継といった面々も加わっていました。

 1572年(元亀3年)、信長は義昭に対し、17ヶ条の意見書を送付。
 義昭を批判します。

 これにより、両者の関係は決定的に悪化。

 義昭は挙兵し、甲斐の武田信玄は西上作戦を開始し、まず信長の同盟者であった徳川家康に対して三方ヶ原の戦いで完勝します。

 そのまま織田領を目指す武田信玄を前に、信長は絶体絶命の窮地に陥るものの、包囲網の一角を担っていた朝倉義景が、突如越前に撤退。

 この行動に対し信玄は遺憾の意を示し、義昭も朝倉氏に対して出兵するよう命じています。

 そんな中、信長は1573年(元亀4年)に、自身の子を人質とすることで義昭に対して和睦申し入れます。
 しかし義昭はこれを信じず、一蹴。

 ところが上洛の最中であった武田信玄は病に倒れ、武田軍は撤兵。
 信玄は死去し、信長は息を吹き返すことになります。

 京に入った信長は知恩院に陣を張り、義昭と対峙。

 義昭は烏丸中御門御第に篭って抵抗を続け、信長は再度和睦を要請するも義昭は応じず、それに対して信長は上京全域を焼き討ちにして焦土と化し、義昭を追い詰めていきます。

 その上で調停工作し、勅命によって講和が成立しました。

 しかし義昭はこの講和を破棄すると、烏丸中御門御第を三淵藤英、伊勢貞興、日野輝資、高倉永相に預けた上で、自身は要害であった槇島城に入って挙兵します。

 だが烏丸中御門御第の三淵藤英もついに降伏し、槇島城は織田軍70,000に包囲されて攻撃が始まると、家臣の説得によって義昭もまた降伏することとなりました。

 この時信長は、将軍家追放の悪名を避けるために、義昭の息子であった義尋を将軍家後継者に立てることを約束し、人質の意味もこめて自身の手元に置いたものの、のちにこの約束は反故されることになります。

義昭追放

 結局信長は義昭の追放を実行。

 足利将軍家の有していた山城や丹波、近江、若狭にあった御料所を自領とします。

 そして元亀から天正への改元を行いました。

 1573年(天正元年)には朝倉義景、浅井長政を滅ぼし、信長包囲網は瓦解。

 義昭の追放により、信長個人が天下人としての地位を得ることになります。

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備後国へ

 信長によって追放された義昭は、まず枇杷荘に移り、さらに本願寺顕如の仲介によって、三好義継の若江城へと入ります。

 しかし三好義継と信長の関係悪化から、義昭は堺へと移動。

 この堺において、信長より羽柴秀吉と朝山日乗が使者として派遣され、帰京を要請したといわれていますが、この交渉は決裂しました。

 1574年(天正2年)には、紀伊の興国寺に入り、さらに泊城へと移動。

 1576年(天正4年)になると、毛利輝元の領国であった備後国の鞆に移ります。
 この地は室町幕府初代将軍・足利尊氏が新田義貞追討の院宣を受けた地であり、足利氏にとって縁起の良い土地でした。

 ここに義昭を初めとする亡命政府が樹立し、鞆幕府とも呼ばれました。

 義昭はこの地で対信長外交政策を行っていくことになり、信長追討のための御内書を全国の大名に下しました。

 そのなかで、義昭は甲斐武田氏、越後上杉氏、相模後北条氏らの和睦を画策しますが、これはうまくいかず、また毛利氏が上洛しないのは北九州に割拠する大友宗麟が原因だと考え、島津氏や龍造寺氏に大友氏追討の御内書を下しています。

 このことが、1578年(天正6年)に勃発した耳川の戦いの原因の一つになったとも、考えられているようです。

 一方、信長と敵対していた諸大名のうち、越後の上杉謙信は1577年(天正5年)に手取川の戦いで織田軍を破るも、翌年には謙信は死去。

 1580年(天正8年)には石山本願寺も降伏。

 1582年(天正10年)には、甲斐武田氏の武田勝頼も天目山にて自害して果て、滅亡しました。

 しかし同年、当時本能寺にいた信長は、明智光秀の謀反に遭い、横死。
 いわゆる本能寺の変で信長とその嫡男・信忠は光秀に討たれて果てました。

 これを好機とみた義昭は、毛利輝元に上洛支援を要請。

 しかし親秀吉派であった小早川隆景が反対したこともあって、その関係は冷え込みつつあったようですが、毛利輝元の他、柴田勝家、徳川家康から上洛支援を取り付けることに成功しています。

最期

 毛利氏はその後豊臣秀吉に臣従。

 1587年(天正15年)、秀吉が九州平定を行うと、義昭は島津氏に大して和睦を勧め、やがて島津義久は秀吉に降伏。

 九州平定がなると、義昭は京に帰還。

 そして翌1588年(天正16年)、将軍職を辞しました。

 その後受戒し、昌山と号します。

 義昭は秀吉から山城国槇島1万石を与えられ、殿中においては大大名以上を待遇を受けたとされています。

 そして朝鮮出兵である文禄・慶長の役が開始されると、秀吉の要請により200の軍勢を率いて肥前国名護屋城へと参陣。

 晩年は御伽衆として、秀吉の話相手になったようです。

 そして1597年(慶長2年)、薨去。享年61。
 法号は霊陽院昌山道休。

 死因は腫物だったようで、病に伏して数日で没したとされています。

足利将軍家歴代当主

 第1代  足利尊氏  1305年~1358年
 第2代  足利義詮  1330年~1367年
 第3代  足利義満  1358年~1408年
 第4代  足利義持  1386年~1428年
 第5代  足利義量  1407年~1425年
 第6代  足利義教  1394年~1441年
 第7代  足利義勝  1434年~1443年
 第8代  足利義政  1436年~1490年
 第9代  足利義尚  1465年~1489年
 第10代 足利義稙  1466年~1523年
 第11代 足利義澄  1481年~1511年
 第12代 足利義晴  1511年~1550年
 第13代 足利義輝  1536年~1565年
 第14代 足利義栄  1535年~1568年
 第15代 足利義昭  1537年~1597年

足利義昭 関係年表

 1537年 足利義晴の次男として誕生。
 1542年 興福寺の一乗院門跡に入室。
 1565年 永禄の変。
     兄・足利義輝暗殺。
     弟・周暠暗殺。
     母・慶寿院暗殺。
     義昭、奈良を脱出。
     矢島御所にて還俗。
     足利義秋を名乗る。
 1566年 若狭国に動座。
     越前国に動座。
 1568年 元服。義昭と改名。
     尾張国へ動座。
     上洛。
     第15代室町幕府将軍に就任。
 1569年 本圀寺の変。
     烏丸中御門第の造営。
     大河内城の戦い。織田氏、北畠氏を調停。
     殿中御掟を承認。
 1570年 姉川の戦い。
     野田城・福島城の戦い。
     朝倉氏と織田氏を調停。
 1571年 信長包囲網の形成。
 1572年 信長による17条の意見書。
 1573年 三方ヶ原の戦い。
     槇島城の戦い。
     室町幕府滅亡。
     義昭追放。
     朝倉氏滅亡。
     浅井氏滅亡。
 1574年 紀伊国の興国寺に移る。
 1576年 備後国の鞆に移る。
 1582年 甲州征伐。
     甲斐武田氏滅亡。
     本能寺の変。
     織田信長討死。
 1587年 九州平定。
 1588年 将軍職を辞す。
 1597年 大坂で薨去。享年61。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
足利義昭  33  32  82  85

 戦国時代の道化師。
 なんて書いたら叱られるかもしれませんが、この方抜きに戦国時代は語れません。
 ともあれ良くも悪くも活躍した人物です。
 戦争向きの能力ではないですが、本人はけっこう挙兵して頑張っています。
 しかしやはり謀略と外交こそ義昭の持ち味。
 能力もそんなところが反映されていますね。

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