朝倉義景 ~灰と燃えさし一乗谷と共に、越前朝倉氏最後の当主

朝倉義景 ~灰と燃えさし一乗谷と共に、越前朝倉氏最後の当主

朝倉義景

三つ盛木瓜 朝倉義景とは越前国の戦国大名であり、一乗谷に居を構えた越前朝倉氏最後の当主です。

 戦国大名・一乗谷朝倉氏の初代である朝倉(英林)孝景より5代目であり、但馬国時代及び越前朝倉氏初代である朝倉広景から数えると11代目に当たります。

 戦国時代で最も有名な人物である織田信長を大いに苦しめるものの、最後は一門の朝倉景鏡に裏切られ、自害した人物として知られています。

 朝倉義景(あさくら よしかげ)
 生年  1533年(天文2年)
 没年  1573年(天正元年)
 改名  長夜叉(幼名)⇒延景⇒義景
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 親   父:朝倉孝景 母:高徳院
 妻   正室:細川晴元の娘
     継室:近衛植家の娘
     側室:小宰相(鞍谷嗣知の娘)
        小少将(斉藤兵部少補の娘)
 子   阿君丸 愛王丸 四葩
     まつ 山浦景色国室 信景

出生と家督相続

朝倉館唐門《朝倉義景居城 一城谷城》

 朝倉義景は朝倉孝景の長男として、1533年(天文2年)に越前国にて誕生しました。幼名は長夜叉。父・孝景はこの時で40歳になっており、他に兄弟がなく、唯一の実子であったとされています。

 孝景が1548年(天文17年)に死去したため、朝倉家11代当主として家督を継ぎました。この時に延景と名乗ることになります。

 当然まだ若かったこともあって、一門の朝倉宗滴によって、彼が死去するまで軍事面においても政治においても補佐されることになります。
 朝倉宗滴とは朝倉一門きっての名将で、朝倉義景やその父・孝景、さらには祖父・貞景を補佐して、武名を轟かせた人物です。

義景を名乗る

 1552年(天文21年)当時の室町幕府の将軍は足利義輝であり、この名前から義の一字を与えられて、延景は義景と名を改めました。また左衛門督の官途も与えられます。

 これは父・孝景の代から幕府と親密な関係を築き、義景自身も正室に管領・細川晴元の娘を迎えたこともあったりと、歴代朝倉家の中でも幕府に近しい存在になっていったことが伺えます。

 1555年(弘治元年)になり、名将・宗滴が死去することで、義景は本格的に自ら政務をみるようになりました。その後隣国の若狭や加賀に出兵したりしていますが、大過なく越前は平穏を維持していきます。

足利義昭の来訪

 朝倉義景にとって天下を取る最大の機会が、この足利義昭の来訪でした。

 1565年(永禄8年)、将軍・足利義輝が、松永久秀によって暗殺されます。その弟であった義昭は奈良にて幽閉されていたが、義景はその脱出に関わり、まず近江へと移りました。その後若狭、敦賀へと移ってきたため、義景はこれを歓迎します。

 一方の義昭も、朝倉家の援助を期待していました。しかしその後援を得るには朝倉と長年抗争を続けていた加賀一向一揆を何とかする必要性があり、両者の仲を取り持とうとしたようです。

 もっともそう簡単にはいかず、1567年(永禄10年)には家臣である堀江景忠が謀反。しかも加賀一向一揆と結んだため、義景はこれと戦うことになります。結果、堀江景忠は加賀から能登へと退去し、没落しました。ようやく越前国も落ち着き、義昭の仲介もあって、加賀一向一揆との和睦も成立しました。

 義昭は義景に上洛を求めます。義昭が後援を期待するのはまさにそのためであって、京からも近く、また幕府とも親しく、戦国大名として有力であった朝倉氏にそれを求めたのは必然だったといえます。

 しかし義景は動きませんでした。理由は色々考えられますが、その頃義景は嫡男である阿君丸が急死して哀しみに暮れており、出陣できる精神状態ではなかったともいわれています。

 ともあれ上洛戦に対して消極的であった義景に対し、義昭は頼るべき相手を変える決断をしました。それが織田信長であり、義景は動座を止めたものの義昭は越前から去ることになります。

スポンサードリンク

宿敵、織田信長

 1568年(永禄11年)、義景は隣国若狭の武田氏の内紛に介入し、出陣。若狭国を支配しました。
 しかし義景はこの頃から政治に倦みだし、遊興に耽るようになっていったとされます。

 同年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。信長は朝倉義景に対し、上洛を命令します。
 これを義景は拒否。
 朝倉氏にとってみれば、いかに義昭の命とはいえど実質信長が出したものなので、上洛するということは織田家に従うということになり、義景は当然そのようなことは許容できなかったからだと思われます。

 一方の信長にとって、当時織田家は尾張と美濃を治め、近江の浅井家と婚姻し、京を手中に収めていました。越前はその美濃から京の中間にのしかかった状態という地理的要因もあり、いわば喉元に刺さった骨のようなものだったため、早急に朝倉氏を服従させる必要があったわけです。

金ヶ崎の戦い

 朝倉義景が拒否したことを口実に、織田信長は越前出兵を開始。
 1570年(永禄13年4月20日)、若狭攻めを口実に織田・徳川連合軍は3万の軍を率いて京を出陣しました。

 織田軍は朝倉方の手筒山城を下し、敦賀郡司・朝倉景恒が守る金ヶ崎城を攻め、ここに金ヶ崎の戦いが勃発します。

 織田軍を前に旗色悪く、朝倉景恒は降伏して金ヶ崎城は陥落。

 しかしここで朝倉氏と同盟関係にあって、織田家とも婚姻関係にあって板ばさみ状態になっていた浅井長政が、信長を裏切り、朝倉氏についたことで、信長は挟み撃ちの窮地に立たされました。

 これにより金ヶ崎の退き口といわれる戦国史上有名な、織田信長の撤退戦が展開されることになるわけです。

金ヶ崎古戦場《金ヶ崎古戦場》

 しかし義景はここで信長やそのた有力家臣を取り逃がしてしまうことになり、再挙する機会を信長に与えてしまうことになります。

姉川の戦い

 1570年(元亀元年6月28日)に姉川の戦いが、朝倉・浅井連合軍と、織田・徳川連合軍との間に勃発。

 朝倉義景は一門の朝倉景健を総大将に命じ、景健率いる8,000の兵と浅井長政率いる5,000の兵との連合軍、計13,000は織田信長・徳川家康の連合軍と戦いました。
 しかし結果的に、朝倉・浅井連合軍の敗北で終わることになります。

 この戦いにおいて朝倉方では真柄直隆真柄直澄真柄隆基ら朝倉家きっての猛将を相次いで討死し、また浅井家においても長政が信頼していたとされている重臣・遠藤直経やその他の多くの家臣を喪い、義景は手痛い損害を受けることになりました。

 とはいえ敗北したもののこの時点ではまだ余力はあったようで、義景はすぐにも再度出陣、織田軍と対峙することになります。

志賀の陣

 信長が摂津に出陣している隙をつき、朝倉義景は自ら出陣。織田領である近江坂本に侵攻します。この宇佐山城の戦いにて信長の弟である織田信治や重臣・森可成を討ち取る戦果を挙げました。

 このような事態に信長が近江へと転進。義景は比叡山に立てこもって、信長と対峙します。いわゆる志賀の陣です。

 この志賀の陣は信長にとって苦しいもので、比叡山を包囲するものの長期戦となってしまい、信長自身、身動きがとれなくなってしまいます。この機に各地で反信長の動きが加速していったため、早期決戦を目指すも義景は決戦に応じませんでした。そのため朝廷工作を行い、勅命により和睦して現状を打破します。

 この際、信長は朝倉義景に対して「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という嘘八百の起請文を出したともいわれています。

 ともあれこの志賀の陣がきっかけとなっていわゆる信長包囲網が作られ、武田信玄が死亡するまで続くことになりました。

刀根坂の戦い

 1571年(元亀2年)になると、義景は本願寺の顕如と和睦し、その子である教如と義景の娘との婚約を成立。関係を改善させます。

 1572年(元亀3年)に、武田信玄による西上作戦開始。朝倉義景にも協力要請があり、出陣。しかし義景は撤退してしまい、信玄より痛烈に非難されることになります。

 1573年(元亀4年2月)、信玄が病死。そのため信長はその主力を朝倉家に傾注することが可能になってしまいます。

 1573年(天正元年8月)、信長は大軍を率いて近江に侵攻。義景も迎撃するために出陣しようとしますが、これまでの失策のため家臣の信頼を半ば失っていた義景の出陣命令に、重臣である朝倉景鏡や魚住景固が拒否。そのため山崎吉家らを率いて出陣するも、田部山の戦いで敗北し、撤退。

 義景は疋壇城への撤退を目指すも織田軍の追撃は厳しく、その途中の刀根坂において壊滅的な被害を受けました。
 いわゆる刀根坂の戦いといわれる退却戦で、ここで朝倉家の重臣達を数多く失うことになります。

疋壇城址《疋壇城址》

朝倉家の滅亡

 義景は命からがら一乗谷を目指しますが、逃亡が相次ぎ、一乗谷に着いた頃には左右に10人程度の側近だけしか残っていなかったといいます。

 この時朝倉氏の命運は尽きたと誰もが思ったようで、一族筆頭の重臣である朝倉景鏡以外は参陣してくることもなく、義景もついに自害を決めます。しかしこの時は近臣によって止められ、景鏡の勧めもあって、一乗谷を放棄。景鏡の地盤である大野にある賢松寺へと逃れました。

 しかし景鏡はすでに信長に通じており、義景を裏切って賢松寺を襲撃。義景は自害に至りました。享年41。

朝倉義景墓所《一乗谷にある朝倉義景墓所》

朝倉義景墓所《福井県大野市にある朝倉義景墓所》

 朝倉義景の墓所は一乗谷と、最期の地である福井県大野市の二箇所に存在します。

 「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
 「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」

 朝倉義景の辞世として残されている言葉です。

朝倉義景の評価

 戦国時代にあって、朝倉義景の評価は非常に低いです。恵まれた地盤や幾度もの好機がありながら、それを逸して信長に利する結果となり、それら失策を重ねて家臣の信頼を失い多数の離反者を出し、最後は一門の朝倉景鏡に裏切られて自害し、朝倉氏は滅亡するに至ったわけで、妥当な評価かもしれません。

 一方で宿敵である信長を苦しめたのは事実であり、一乗谷を繁栄させた手腕もありました。また義景個人は小笠原流弓術を学び、武芸の心得もあったようで、また日向宗立から武田流戦術を学んだり、決して保守的な人物であったわけでもないようです。

 ただやはり武芸というよりは文芸で秀でていたようで、時が平和な時代であれば、偉人として名を残したかもしれませんが、時は戦国時代であり、時代に即さなかったともいえます。

 朝倉氏滅亡の際にその血筋の多くは殺害されましたが、朝倉義景の末子とされる朝倉信景は難を逃れ、僧として江戸時代を生きたそうです。

朝倉家歴代当主

第1代 朝倉広景      1255年~1352年
第2代 朝倉高景      1314年~1372年
第3代 朝倉氏景(大功宗勲)1339年~1405年
第4代 朝倉貞景(大心宗忠)1358年~1436年
第5代 朝倉教景(心月宗覚)1380年~1463年
第6代 朝倉家景      1402年~1451年
第7代 朝倉孝景(英林孝景)1428年~1481年
第8代 朝倉氏景      1449年~1486年
第9代 朝倉貞景      1473年~1512年
第10代 朝倉孝景(宗淳孝景)1493年~1548年
第11代 朝倉義景      1533年~1573年

朝倉義景 関連年表

 1533年 越前にて朝倉孝景の長男として誕生。
 1548年 父・孝景死去。家督を相続し、延景と名乗る。
 1552年 義景と改名。左衛門督に任官
 1555年 朝倉宗滴死去。自ら政務を執る。
 1559年 従四位下に叙位。
 1563年 若狭に侵攻。粟屋勝久を攻める。
 1564年 加賀に出兵。大聖寺まで進出。
 1565年 将軍足利義輝暗殺。
     義輝の弟である足利義昭、敦賀に動座。
 1567年 堀江景忠謀反。
     連動して加賀より杉浦玄任の来襲。
     足利義昭を一乗谷安養寺に迎える。
     加賀一向一揆と和解。
 1568年 義景の母高徳院、二位の尼に序せられる。
     嫡男・阿君丸の急死
     義昭、越前より退去
     若狭守護武田氏の内紛に介入。
     武田元明を一乗谷に軟禁。
 1570年 織田・徳川連合軍、越前に侵攻。
     金ヶ崎の戦い。織田軍敗退。
     姉川の戦いに敗北。
     近江坂本に侵攻。坂本の戦いに勝利。
     志賀の陣、義景と信長の講和成立。
 1571年 本願寺顕如と和解。
     義景の娘と、顕如の子である教如との間に婚約成立。
     織田領横山城、箕浦城を攻撃するも敗退。
 1572年 小谷城包囲。義景、援軍に赴く。
     前波吉継、富田長繁ら織田方に寝返る。
     武田信玄による西上作戦開始。
     義景、越前に撤退。信玄に非難される。
 1573年 武田信玄病死。
     信長の近江侵攻。義景、出陣。
     大嶽砦陥落。田部山の戦いで大敗。
     刀根坂の戦いで朝倉軍壊滅。
     一乗谷を放棄。東雲寺から賢松寺に逃亡。
     朝倉景鏡の裏切り。
     賢松寺を襲撃され、義景自害。享年41。

スポンサードリンク

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
朝倉義景  37  39  39  59

 戦国大名としては何とも残念な能力値。配下の武将に比べても見劣りしますね。これでは見限られてしまっても文句も言えないですね。低い評価はそのままゲームの世界でも反映されてしまっているようです。
 ただ個人的にはこのへたれ具合が好きなので、しょっちゅう義景でプレイしてますが。

朝倉家カテゴリの最新記事