朝倉孝景 ~文道を左に武道を右に、朝倉氏第10代当主

朝倉孝景 ~文道を左に武道を右に、朝倉氏第10代当主

三つ盛木瓜 朝倉孝景とは戦国時代の越前国における戦国大名です。
 越前支配が安定したことで、その本拠である一乗谷に繁栄をもたらした優れた文治政治家として知られています。

 また朝倉氏最後の当主となる、朝倉義景の父親に当たる人物でもあります。

 朝倉孝景(あさくら たかかげ)
 生年  1493年(明応2年)
 没年  1548年(天文17年)
 別名  孫次郎
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 親   父:朝倉貞景
     母:斎藤利国の娘
 兄弟  景高 景郡 景紀
     道郷 景延 大成明玉
     朝倉景職室(北殿)
     南陽尼寺良玉侍者
     土岐頼武室 鞍谷氏室
 妻   光徳院(武田元信の娘)
 子   義景 

朝倉軍の派遣

 1493年(明応2年)、朝倉貞景の嫡男として誕生しました。

 1512年(永正9年)に父・貞景が死去し、家督を継ぐことになります。

 1517年には幕命により、朝倉宗滴を軍奉行として若狭・丹後に出兵し、若狭守護であった武田氏を助けて、若狭の逸見氏と丹後守護代の反乱を鎮圧しました。

 また1518年(永正15年)に美濃国において、斉藤氏と長井氏の間で紛争が起き、守護であった土岐頼武が土岐頼芸に敗北すると、斉藤利良は頼武と共に越前に亡命します。

 これを受けて、孝景は翌1519年(永正16年)に、実弟である朝倉景高を大将にして美濃国に出陣させます。
 朝倉軍は正木合戦及び池戸合戦に勝利し、亡命してきていた利良と頼武を美濃に復帰させることに成功しました。

 また隣国近江においては、六角氏と浅井氏の争いが起こっており、孝景は朝倉宗滴を派遣して小谷城の浅井亮政を牽制し、これを調停。
 亮政はこの時に朝倉氏と同盟を結び、これは両家が滅亡するまで続くことになります。

 さらには1527年(大永7年)、京を追われていた室町幕府将軍・足利義晴の求めに応じる形で、朝倉宗滴と朝倉景紀に兵を率いさせ、洛中へと侵攻。
 この時洛中を支配していた三好元長らと合戦におよび、これに勝利して洛中の支配権を奪取するなど、戦功を挙げました。

 1531年(享禄4年)には享禄の錯乱が起こり、朝倉宗滴を派遣して加賀一向一揆と戦い、手取川付近まで侵攻するなど戦果を上げますが、翌1532年(天文元年)には一向一揆と和議を成立させます。

 当時平和であった越前国とは対照的に、周辺国は混乱しており、孝景は加賀や美濃、近江や若狭の隣国にたびたび出兵しました。

 それらで功を挙げたことは朝倉氏の家格を向上させ、また軍事的な優位性や政治的な影響力をみせつけていくことになります。

 特に幕府からの要請で軍を派遣したことで、幕府や朝廷との繋がりを深くし、本拠であった一乗谷に京風の文化を花開かせることになりました。

 しかしこれらの朝倉軍の派遣において、当主であった孝景自ら出陣したことは無く、全て名代が総大将として出陣するといった制度が確立しており、このことが次代である朝倉義景の統治の際にも影響を及ぼすことになっていきます。

朝倉景高との対立

 このように軍事、政治、文化共に成熟していった朝倉氏でしたが、一方で一族による内紛もありました。

 孝景の実弟である景高は、1527年(大永7年)に大野郡司に任命されていましたが、1530年代後半くらいから孝景と不和になったとされ、大野郡司を罷免されます。

 景高は1540年(天文9年)に上洛すると、幕府要人や公家の人脈を頼って反孝景の活動を行うものの、失敗。
 孝景は朝廷に五十貫門を贈り、景高追放を幕府に願い出て、それが受けられて景高は京を追放となりました。

 その後も景高は反孝景の運動を画策していましたが、結局うまくいかずに西国へ逃れることになります。

 この時、景高の子である景鏡は越前に残っており、父の反逆により低い地位に甘んじることになっていましたが、やがて一門筆頭にまで上りつめ、最後は主君である義景(孝景の子)を裏切り、自刃に追いやることになるのです。

加納口の戦い

 1544年(天文13年)、孝景は土岐頼武の嫡男である土岐頼純を美濃守護とするため、終わりの織田信秀と組んで美濃の斉藤道三を攻めました。

 これは織田方の大敗で終わり、織田家は信秀の嫡男・信長と、道三の娘との縁組を成立させることで和睦。
 これにより織田信長が台頭していくことになり、一方の朝倉家はその信長によって存亡の危機に晒されることになっていくことになります。

 そして1548年(天文17年)に、孝景死去。享年55でした。

朝倉孝景の評価

 周辺国が混乱するのを余所に、孝景の代において越前国では比較的平穏な時代が続き、荒れた京から文化人なども流入したため、一乗谷はその繁栄を極めることになります。

 これは孝景が文治政治家として、優秀であったことを示しています。

 一方で貴族的な文化に溺れていったわけではなく、朝倉家中においては軍略や剣術の研究も盛んであり、富田勢源や富田景政、川崎時盛、そして「名人越後」と呼ばれた富田重政、また鐘捲自斎、佐々木小次郎といった剣豪を輩出していきました。

 そのため孝景は「文道を左に、武道を右にした風流太守」と称されるなど、文武共に賞賛されていたようです。

 ただ孝景自身の武将としての力量は分かっていません。
 この時の朝倉家には名将・朝倉宗滴がおり、彼を初めとする一門の者が名代として戦場に出ていたため、またそのような制度になっていたため、当主自らの出陣というものが無かったからです。

 周辺各国にたびたび出兵したものの、それらは幕府からの要請に応えてというものが大半であり、領土拡大のための戦はほとんど無く、そういった野心も孝景自身には無かったのかもしれません。

朝倉家歴代当主

第一代  朝倉広景      1255年~1352年
第二代  朝倉高景      1314年~1372年
第三代  朝倉氏景(大功宗勲)1339年~1405年
第四代  朝倉貞景(大心宗忠)1358年~1436年
第五代  朝倉教景(心月宗覚)1380年~1463年
第六代  朝倉家景      1402年~1451年
第七代  朝倉孝景(英林孝景)1428年~1481年
第八代  朝倉氏景      1449年~1486年
第九代  朝倉貞景      1473年~1512年
第十代  朝倉孝景(宗淳孝景)1493年~1548年
第十一代 朝倉義景      1533年~1573年

朝倉孝景 関係年表

 1493年 朝倉貞景の嫡男として誕生。
 1512年 父・貞景死去。家督を継ぐ。
 1516年 将軍・足利義稙より、白傘袋および毛氈鞍覆を免ぜらる。
 1517年 朝倉宗滴を若狭・丹後に出陣させる。
     若狭逸見氏と丹後守護代延永氏の反乱を鎮圧。
 1518年 斎藤利良と土岐頼武が越前に亡命。
 1519年 朝倉景高を美濃に侵攻させる。
     正木合戦に勝利。
     池戸合戦に勝利。
 1525年 宗滴を近江小谷城に出陣させる。
 1527年 宗滴・朝倉景紀を京に進軍。
 1528年 将軍・足利義晴の御供衆に加えられる。
 1531年 享禄の錯乱。
 1532年 六角氏との間に密約。
     加賀一向一揆と和議。
 1533年 嫡男・義景誕生。
 1535年 塗輿御免。
 1536年 景高、大野郡穴間城を攻略。
 1538年 幕府相伴衆に列する。
 1540年 景高上洛。反孝景を画策。
     孝景の願い出により、景高、京を追放。
 1543年 景高、西国へ逃亡。
 1544年 加納口の戦いに敗北。
 1548年 孝景死去。享年55。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
朝倉孝景  84  66  84  90

 自ら戦場に出なかったためか、武勇は決して高くは無いものの、その他は優秀。
 特に政治力は高め。
 一乗谷に全盛期を築いただけのことはあります。
 朝倉宗滴と孝景が存命の間は、朝倉家も強いですね。

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