朝倉氏景(大功宗勲) ~一城谷に最初の縁を作った、朝倉氏第3代当主

朝倉氏景(大功宗勲) ~一城谷に最初の縁を作った、朝倉氏第3代当主

三つ盛木瓜 朝倉氏景とは南北朝時代の武将です。
 越前朝倉氏の歴代当主の中には氏景の名を持つ者が二人いますが、こちらではその中で第3代当主にあたる人物について記します。

 朝倉氏景(あさくら うじかげ)
 生年  1339年(暦応2年/延元4年)
 没年  1405年(応永11年)
 改名  孫次郎⇒氏景
 別名  孫右衛門
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 親   父:朝倉高景
 兄弟  阿波賀茂景 向久景 三段崎弼景
 子   貞景 東郷正景 中島景康

偏諱を賜る

 1339年(暦応2年/延元4年)に朝倉高景の子として生まれました。

 1355年(文和4年)の東寺南大門での合戦においては父親と共に功績を挙げ、足利尊氏より偏諱を賜って氏景と名乗ったとされています。

 しかしこの偏諱を賜ったことに関しては事実かどうか怪しいとされており、その理由はこの時朝倉氏は南朝側に属しており、尊氏と敵対していたからです。

 1366年(正平21年/貞治5年)に貞治の変が起こると、朝倉家の主家であった斯波氏の斯波高経らが討伐の対象となります。

 この時に父・高景は斯波氏から離れ幕府側につき、所領を安堵。越前国における朝倉氏の基礎を得ることとなりました。

 その後、斯波氏が越前守護に復帰するのですが、朝倉氏もまた斯波氏の家臣に復帰することになります。

朝倉氏の冷遇

 『朝倉始末記』によると、摂津の合戦などで氏景は戦功を挙げ、足利義満から「大功」の法名を賜ったりするのですが、その後、幕府や斯波氏から冷遇されることになりました。

 『相国寺供養記』には明徳年間の斯波氏の重臣が記されているのですが、そこに朝倉氏や氏景の名前が見当たらないことからも、その冷遇ぶりを伺うことができます。

 1401年(応永8年)に、弘祥寺に仏殿を建立。一乗谷に熊野権現を勧請したとされています。

 これが朝倉氏と一乗谷と関係する最初の事例として知られており、のちに一乗谷を朝倉氏の本拠とするきっかけになったといえるでしょう。

 1404年(応永11年)に死去。享年66。

 その家督はこの貞景(大心宗忠)が継承することになります。

朝倉家歴代当主

第一代  朝倉広景      1255年~1352年
第二代  朝倉高景      1314年~1372年
第三代  朝倉氏景(大功宗勲)1339年~1405年
第四代  朝倉貞景(大心宗忠)1358年~1436年
第五代  朝倉教景(心月宗覚)1380年~1463年
第六代  朝倉家景      1402年~1451年
第七代  朝倉孝景(英林孝景)1428年~1481年
第八代  朝倉氏景      1449年~1486年
第九代  朝倉貞景      1473年~1512年
第十代  朝倉孝景(宗淳孝景)1493年~1548年
第十一代 朝倉義景      1533年~1573年

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