朝倉貞景 ~朝倉氏全盛期の基礎を築いた、第9代当主

朝倉貞景 ~朝倉氏全盛期の基礎を築いた、第9代当主

三つ盛木瓜 朝倉貞景とは室町時代から戦国時代にかけての武将であり、越前国の戦国大名です。
 父の代で確立した越前支配を確固たるものとし、内憂外患を打ち払って朝倉氏の全盛期の基礎を築くに至りました。

 また歴代当主の4代目にも、同名の人物が当主としていたことで知られています。

 朝倉貞景(あさくら さだかげ)
 生年  1473年(文明5年)
 没年  1512年(永正9年)
 別名  孫次郎
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 親   父:朝倉氏景
     母:織田孫左衛門の娘
 兄弟  景宗
 妻   斎藤利国の娘
 子   孝景 景高 景郡 
     景紀 道郷 景延
     大成明玉 朝倉景職室(北殿)
     南陽尼寺良玉侍者
     土岐頼武室 鞍谷氏室

長享の乱

 1473年(文明5年)に朝倉氏景の嫡子として生まれます。

 1486年(文明18年)に父・氏景が死去。
 貞景はこの時まだ13~4歳という若年であったため、家臣が勝手に行動したりと、混乱があったようです。

 1487年(長享元年)、長享の乱が勃発します。
 これは近江守護であった六角行高に対し、室町幕府が行った新征のことです。

 このいわゆる第一次六角征伐(鈎の陣)において、室町幕府将軍・足利義尚の命を受けた貞景もまた、六角攻めに出陣します。

 しかし貞景は敦賀にて留まり、敦賀郡司であった朝倉景冬のみを先陣として先行させ、近江坂本に着陣させました。

 これはかつての主であった斯波氏の斯波義寛が幕府軍の一員としてすでに坂本に着陣しており、家臣であった朝倉氏と同陣することに対して屈辱を覚え、越前国守護職の斯波氏への復職を訴えるという事案が発生したためだったとされます。

 そのため貞景は六角氏に続いて次の標的にされることを警戒して越前国から動かず、景冬を派遣して協調姿勢をみせるに留めました。

 また美濃国の守護・土岐成頼もまた朝倉氏と同様に幕府軍を警戒し、美濃にて挙兵して幕府軍に対して迎え撃つ姿勢をみせます。
 
 朝倉・土岐氏がこのように幕府軍の侵攻を危惧した理由としては、応仁の乱の西軍総大将であった足利義視(義政の弟)と義材の父子を美濃にて土岐氏が庇護しており、六角氏征伐後の次の標的は土岐氏であると考えたためでした。

 そして貞景はこの土岐氏において実権を握る重臣・斎藤妙純の娘を正室に迎えており、そのため朝倉氏と土岐氏には斉藤家を介して婚姻関係があったため、斯波氏による訴えとは別に幕府軍の侵攻を警戒する必要があったようです。

 斯波氏の訴えについては、貞景の言い分が通り、朝倉氏は将軍の直臣とされて朝倉氏による越前支配が認められて事無きを得ます。

 また六角征伐自体も義尚が1489年(延徳元年)に陣中で死去したことで中断となり、美濃侵攻も起きませんでした。

延徳の乱

 しかし1491年(延徳3年)になり、新たに室町幕府の将軍となった足利義材は再び六角攻めのために近江へと出陣します。
 これが延徳の乱と呼ばれる第二次六角征伐であり、前回同様、再び斯波義寛が訴えを起こしました。

 一時は朝倉貞景征伐の御内書が出され、将軍による越前遠征まで噂されたとされますが、結局は立ち消えることになります。
 これには朝倉氏が保有していたとされる1万2000もの軍事力のおかげであったともいわれています。

各地での転戦

 1493年(明応2年)に起きた明応の政変においては細川政元に同心して、将軍・義材を捕らえます。
 これによって義材は廃位され、小豆島に流罪となる前に京都を脱出し、越中国放生津に下向しました。

 義材が越中公方を樹立すると、貞景は翻ってその元に馳せ参じ、その政権を構成する人員となります。

 また加賀国より一向一揆が甲斐氏の残党と組んで侵攻するも、貞景はこれを撃退して勝利。

 さらには1494(明応4年)に美濃にて起きた船田合戦に斉藤方として参戦し、その決戦では朝倉軍も派遣して大勝するなど、各地で戦果を挙げていきます。

 1498年(明応7年)になると、前の将軍であった足利義材が上洛の機会を伺い、越前国の一乗谷へと動座し、越前公方と呼ばれました。
 貞景はこれを歓待。
 しかし上洛支援は断り、義材は貞景の力を借りずに上洛軍を派遣するに至ります。

 結果としてこの足利義材の上洛は失敗し、貞景は細川政元やこれと同盟関係にあった加賀の本願寺らと対立するようになりました。

一族の謀反

 1503年(文亀3年)、一門の朝倉景総は朝倉景豊や朝倉宗滴と共謀し、甥に当たる貞景に対し、謀反を企てます。

 しかし朝倉宗滴の密告により事前に計画は露見し、敦賀郡司であった朝倉景豊の篭る敦賀城に対して貞景は軍をもって包囲。
 景総の軍は近江から越前に向かっていたものの間に合わず、景豊は貞景との合戦の末に自害して果てました。

 1504年(永正元年)には、いったん美濃、飛騨国を経由して加賀国へと入っていた朝倉景総が加賀一向一揆と協力し、越前に侵攻。
 決戦に及ぶも貞景はこれを返り討ちにし、景総は能登国に逃亡し、朝倉氏一門での内紛に勝利した貞景は、その家督を確実なものとします。

九頭竜川の戦い

 そして1506年(永正3年)には加賀国、越中国、能登国の一向一揆が越前国へと大挙して侵攻。

 世にいう九頭竜川の戦いにて、朝倉宗滴を総大将とした朝倉軍は大勝し、これを駆逐したことで、名実ともに朝倉氏による越前国支配を成し遂げ、戦国大名化を果たしたといえます。

 その後、越前国においては1567年(永禄10年)に起きた堀江景忠の謀反まで、約60年にわたって平和が訪れることになり、全盛期を迎えることになりました。

 1512年(永正9年)、貞景は鷹狩りの途中に急死します。享年40。

 貞景は父親の急死のため若年でありながら家督を継ぎ、室町将軍の討伐の可能性を回避しながら一向一揆を撃退し、また一族の謀反を収めて越前国の支配を確固たるものにし、その後の全盛期を基礎を作った当主であり、父や祖父に劣らない優秀な人物であったことが伺えます。

 家督は嫡男であった宗淳孝景が継ぎ、朝倉氏はまさにその全盛期を迎えることになるのです。

朝倉家歴代当主

第一代  朝倉広景      1255年~1352年
第二代  朝倉高景      1314年~1372年
第三代  朝倉氏景(大功宗勲)1339年~1405年
第四代  朝倉貞景(大心宗忠)1358年~1436年
第五代  朝倉教景(心月宗覚)1380年~1463年
第六代  朝倉家景      1402年~1451年
第七代  朝倉孝景(英林孝景)1428年~1481年
第八代  朝倉氏景      1449年~1486年
第九代  朝倉貞景      1473年~1512年
第十代  朝倉孝景(宗淳孝景)1493年~1548年
第十一代 朝倉義景      1533年~1573年

朝倉貞景 関係年表

 1473年 朝倉氏景の嫡男として誕生。
 1486年 父・氏家死去。家督を継ぐ。
 1487年 長享の乱。
 1491年 延徳の乱。
 1493年 明応の政変。
     細川政元に協力し、足利義材を廃位。
     越中公方の構成員になる。
 1494年 船田合戦。斉藤方として参戦。
 1498年 義材、越中より越前に動座。
 1503年 朝倉景豊謀反。
 1504年 朝倉景総(元景)、加賀より来襲。
 1506年 九頭竜川の戦いに大勝。
 1512年 貞景死去。享年40。

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