朝倉教景 ~永享の乱や結城合戦で戦功を挙げた、朝倉氏第5代当主

朝倉教景 ~永享の乱や結城合戦で戦功を挙げた、朝倉氏第5代当主

三つ盛木瓜 朝倉教景とは室町時代の武将であり、朝倉(英林)孝景の祖父にあたる人物です。
 また越前国の守護である斯波氏に仕える一家臣の立場でありながら、関東へとたびたび出兵し、武功を挙げたことでも知れれています。

 朝倉教景(あさくら のりかげ)
 生年  1380年(康暦2年/天授6年)
 没年  1463年(寛政4年)
 改名  又太郎または小太郎⇒教景
 別名  孫右衛門尉
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 親   父:朝倉貞景(大心宗忠)
 兄弟  頼景 他
 子   家景 将景 僧 僧 
     娘(織田久長室?)

永享の乱

 1380年(康暦2年/天授6年)に朝倉貞景(大心宗忠)の嫡男として誕生。

 当時の朝倉氏は越前守護であった斯波氏の被官という立場ではあったものの、室町幕府の命を受けて関東方面へと出兵することになったのが教景でした。

 父・貞景の事跡はほとんど残っておらず、その生涯については不明なことが多いのですが、その嫡子であった教景は乱の平定において戦功を挙げたことで名を残しています。

 1438年(永享10年)に、永享の乱が勃発します。
 これは鎌倉公方であった足利持氏と、関東管領の上杉憲実の対立に端を発したものであり、室町幕府の第6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じ、始まりました。

 この時、各地から兵が幕兵として動員されたのですが、駿河守護であった今川範忠や、甲斐守護の武田信重、そして信濃守護の小笠原政康らと共に、越前国からは守護の斯波氏の代わりに教景が出兵することになります。

 乱は足利持氏の敗北で幕を閉じ、教景も功を挙げました。

 しかし関東での火種は完全に消し去ることはできず、のちの結城合戦に繋がっていくことになります。

結城合戦

 1440年(永享12年)、足利持氏の遺児である春王丸と安王丸を擁した結城氏朝・持朝父子が、室町幕府に対して反乱を起こしました。
 これが結城合戦と呼ばれるものです。

 この乱に際して教景は再び関東に出兵し、春王丸らを生け捕りにするという戦果を挙げたとされています。

 これらの功により、将軍・足利義教より「教」の字を賜って、「教景」と名乗るようになったようです。

孫・孝景を支える

 教景には嫡子であった家景がいましたが、教景に先立って1451年(宝徳2年)に死去しており、その跡を継いだ孝景(英林孝景)を補佐しました。

 そして1463年(寛正4年)に死去。享年84。

教景の名

 教景という名前は朝倉氏にとって重要な諱であり、同名の人物が五名は確認することができます。

 ・朝倉教景…朝倉氏第5代当主。本ページにて記載。
 ・朝倉家景…朝倉氏第6代当主。5代目当主である教景の子。
 ・朝倉孝景…朝倉氏第7代当主。朝倉敏景とも、英林孝景とも。6代目当主である教景の子。
 ・朝倉教景…英林孝景の五男。朝倉宗滴の兄。
 ・朝倉宗滴…英林孝景の八男。兄・教景の死後に、教景を名乗る。

朝倉家歴代当主

第一代  朝倉広景      1255年~1352年
第二代  朝倉高景      1314年~1372年
第三代  朝倉氏景(大功宗勲)1339年~1405年
第四代  朝倉貞景(大心宗忠)1358年~1436年
第五代  朝倉教景(心月宗覚)1380年~1463年
第六代  朝倉家景      1402年~1451年
第七代  朝倉孝景(英林孝景)1428年~1481年
第八代  朝倉氏景      1449年~1486年
第九代  朝倉貞景      1473年~1512年
第十代  朝倉孝景(宗淳孝景)1493年~1548年
第十一代 朝倉義景      1533年~1573年

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