朝倉信景 ~一乗谷にて滅亡した戦国大名・朝倉義景の遺児か

朝倉信景 ~一乗谷にて滅亡した戦国大名・朝倉義景の遺児か

三つ盛木瓜 朝倉信景とは安土桃山時代から江戸時代にかけての僧であり、かつて織田信長により滅ぼされた越前の戦国大名である朝倉義景の、末子であるとされている人物です。

 朝倉信景(あさくら のぶかげ)
 生年  1571年(元亀2年)
 没年  1652年(承応元年)
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 親   父:朝倉義景か?
 兄弟  阿君丸 愛王丸
     四葩(本願寺教如と婚約) 
     娘(出家)
     まつ(勝興寺顕幸室) 
     山浦景国室(上杉景勝養女)

朝倉氏の滅亡と出家

 1571年(元亀2年)、越前朝倉氏の当主であった朝倉義景の末子として生まれたとされています。

 1573年(天正3年)、織田信長は3万もの軍勢を率いて朝倉家の盟友・浅井家の近江に侵攻開始。

 この状況に際して義景は自ら軍勢を率いて救援に向かうも、大嶽砦の戦いに敗北して浅井家との連携が不可能となり、越前への撤兵を決意します。

 しかしこれを読んでいた信長に執拗な追撃を受け、刀根坂の戦いにおいて大敗し、義景は命からがら一乗谷に逃れました。

 そして最期は従兄弟である朝倉景鏡の裏切りにあって、賢松寺にて自害を遂げることになります。

 父・義景の死後、高徳院や小少将、愛王丸といった義景の縁者は丹羽長秀によって殺害され、ここに戦国大名としての朝倉家は滅亡しました。

 信景はこの時に難を逃れて逃亡し、東本願寺第12代法主・本願寺教如の弟子として僧になったとされています。

 その後江戸に移り住み、遍立寺(朝倉山・一乗院)を1628年(寛永5年)に建立して、東本願寺第13代法主である本願寺宣如に本尊を譲り受けて住職となりました。

 そして1652年(承応元年)に死去。享年82歳。

朝倉義景の子であったのか

 この朝倉信景という人物の名は、朝倉家の家系に見ることはできません。そのため義景の息子であったという確たる証拠は無いようです。

 しかし義景の娘である四葩は本願寺教如と結婚し、朝倉氏と本願寺は婚姻関係であったため、本願寺と繋がりがあったことは確かで、この信景という人物は例え義景の子でないにしろ、朝倉氏の縁のある人物であることには違いないといわれています。

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