朝倉道景 ~主家滅亡に殉じた、朝倉氏一門の若武者

朝倉道景 ~主家滅亡に殉じた、朝倉氏一門の若武者

三つ盛木瓜 朝倉道景とは戦国時代の武将であり、越前朝倉氏の家臣です。
 朝倉氏の系図により朝倉景恒の子とされているものの、様々な要因から疑わしいとされており、朝倉氏一門でありながら系譜のはっきりとしない人物として知られています。

 朝倉道景(あさくら みちかげ)
 生年  1558年(永禄元年)
 没年  1573年(天正元年)
 改名  彦四郎⇒道景
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)  
 主君  朝倉義景
 親   父:朝倉景恒

刀根坂の戦い

 道景の名が初めて歴史に出てくるのは1572年(元亀3年)のことで、主君・朝倉義景が近江出陣の際に従った武将の中に、その名前を見ることができます。

 そしてその翌年、1573年(天正元年)に行われた刀根坂の戦いにおいて、その戦死者の名前の中に「朝倉彦四郎道景」の名があり、この時に戦死したことが分かっています。

 道景を討ち取ったのは犬間源三長吉で、その首を持って織田信長に持参しました。
 それを検分した信長は、前の年の織田方に寝返っていた前波吉継に誰の首かと尋ね、吉継は涙を流しながら朝倉一門の者で今年16歳になる彦四郎であると、答えたそうです。

 信長はその死に顔を立派であると褒め、哀れんだといいます。

 このことから道景の生年は1558年(永禄元年)であったと推察でき、『朝倉家録』によると朝倉景恒の息子、というように位置づけられているようです。

出自に対する疑義

 ただし、この朝倉景恒の息子、ということについては批判が存在しています。

 父親とされる朝倉景恒は兄・朝倉景垙の自害に際してその跡を継ぐため、もともと出家して僧籍にあったのを還俗したという経緯がありました。

 景恒が還俗したのが1564年(永禄7年)であり、道景の生年が1558年(永禄元年)であるとするのならば、その出生に矛盾が出てきてしまいます。

 またその名乗りである「道景」という名前も、当時の朝倉家の場合、当主は「○景」と名乗り、一門の家臣は「景○」と名乗っていた慣例に反してしまいます。

 さらに、父親とされる朝倉景恒の敦賀郡司家は、朝倉景垙の自害事件などから大野郡司家の朝倉景鏡と激しく対立しており、足利義昭が越前に動座した際の、一門の席次を巡っても両者は争い、一方が伺候すれば一方は参じない、といった有様だったほどで、しかしこの時の席次の13番目に道景らしき人物の名があり、祖父・景紀や父・景恒が参じなかった中で道景だけが低い席次に甘んじていた、というのもおかしな話であるとされているようです。

 こういった事情から、道景は敦賀郡司家の生まれではなく、波多野道郷の系譜に繋がる者ではないか、と推測されています。

 波多野道郷というのは朝倉氏9代目当主の五男にあたり、波多野氏の家督を継承した人物です。

 はっきりしたことは不明なものの、波多野氏の通字である「道」の字と義景の「景」を組み合わせて、「道景」と名乗ったのではないのかとされているようです。

 いずれにせよ、「道景」と名乗った朝倉一門に連なる若武者がおり、朝倉氏滅亡の戦いとなった刀根坂の戦いで主家に殉じる形で討死し、またその容姿が眉目秀麗であったとして歴史に名を残したことには違いありません。

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