朝倉景垙 ~陣中にて自害、朝倉氏滅亡の遠因となった将

朝倉景垙 ~陣中にて自害、朝倉氏滅亡の遠因となった将

金ヶ崎城址《景垙が城主を務めた敦賀郡司居城 金ヶ崎城址》

三つ盛木瓜 朝倉景垙とは戦国時代の武将であり、越前朝倉氏の家臣です。
 その死が敦賀郡司家と大野郡司家の対立を決定的なものとし、朝倉氏滅亡の遠因にもなったといわれています。

 朝倉景垙(あさくら かげみつ)
 生年  不詳
 没年  1564年(永禄7年)
 別名  孫九郎
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)  
 主君  朝倉義景
 親   父:朝倉景紀
 兄弟  景恒
 子   七朗 

敦賀郡司家の嫡男

 景垙の生年は分かっていません。

 父親は敦賀郡司を務めた朝倉景紀で、父・景紀は朝倉氏第9代当主を務めた朝倉貞景の子であり、また一門の重鎮であった朝倉宗滴の養子となって、義父・宗滴から敦賀郡司職を引き継いでいました。

 そのため景垙の生まれた敦賀郡司家は、朝倉氏一門の中でも名門であったといえます。

 1558年(永禄元年)頃に、敦賀郡司職を景紀から譲られました。

 1561年(永禄4年)の逸見氏の反乱に対して、父と共に出陣。
 1563年(永禄6年)の粟屋勝久攻めにも出陣し、功を挙げました。

大野郡司家との対立

 1564年(永禄7年)、主君であった朝倉義景は加賀一向一揆征伐を決意し、その総大将に朝倉景鏡朝倉景隆を任命して攻め込みます。

 この時に景垙は自ら大将を希望したといわれていますが、義景はこれを認めませんでした。
 更に加賀の陣中において、一門の景鏡と口論になった末、それに敗れて自害。

 名門である敦賀郡司を務めた部将であり、しかも一門の者が陣中で自害して果てるという状況に、朝倉義景自らが急遽、総大将となって出陣することで場を収めたとされています。

 朝倉氏において、義景のの代より当主自ら出陣せず、一門の者を名代として総大将とする制度が確立しており、この加賀出陣の時のように義景が自ら出陣するというのは、当時の朝倉家にとって異例なことでした。

 景垙の自害の原因となった朝倉景鏡は朝倉氏のもう一つの名門・大野郡司でした。
 かねてより朝倉一門の中において序列争いがあったようで、この景垙自害事件により、景垙の父である景紀と景鏡の対立が決定的になり、のちの朝倉氏滅亡の遠因になったともいわれているようです。

 景垙には嫡男がいたものの、この時まで2歳と幼く、出家していた弟の松林院鷹瑳が還俗し、名を朝倉景恒と改めて敦賀郡司を継承しました。 

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