朝倉孝景(敏景) ~下克上の先駆けをした天下一の極悪人、英林孝景

朝倉孝景(敏景) ~下克上の先駆けをした天下一の極悪人、英林孝景

朝倉孝景

三つ盛木瓜 朝倉孝景とは室町時代から戦国時代初期にかけて活躍した武将であり、越前朝倉氏の7代目当主として知られています。一乗谷に朝倉氏繁栄の基礎を作った人物でもあります。

 孝景は改名を繰り返しており、最初は教景と名乗り、その後敏景と改名し、再び教景に戻り、最後は孝景という名乗りで落ち着きました。

 この孝景の名前は彼のひ孫に同名の人物がいるので、名乗りの一つである「朝倉敏景」と表記されたり、法名から「英林孝景」と呼ばれたりして区別されています。この時期の人物は一生のうちにいろいろ名乗りを変えていることが多く、このひともその例にもれず、ということですね。

 朝倉孝景(あさくら たかかげ)
 生年  1428年(応永35年)
 没年  1481年(文明13年)
 改名  小太郎⇒教景⇒敏景
     ⇒教景⇒孝景
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 主君  斯波義敏⇒斯波義寛⇒斯波義廉
 親   父:朝倉家景
 兄弟  堀江利真室 経景 輿市郎
     景冬 光玖 聖室宗麟
     久嶽紹良 定国
 妻   正室:朝倉将景娘(円渓眞成大姉)
     継室:逸見氏養女・温科氏娘
 子   氏景 景明 孫四郎
     景総 教景(以千宗勝)
     時景 景儀 教景(宗滴)

長禄合戦と家督相続

 1428年(応永35年)に、朝倉氏6代当主である、朝倉家景の嫡男として誕生しました。
 しかし家景は1451年に死去したため、朝倉氏5代目当主であった祖父・朝倉教景がまだ健在であったことから、この補佐を受け、当主となります。

 名乗りの一つである敏景という名前は、主君であった斯波義敏より一字を受けて、そう改名しました。
 しかし1458年(長禄2年)に長禄合戦が始まります。

 この戦いは越前守護である斯波義敏と越前守護代であった甲斐常治が起こした一連の戦いのことで、孝景は甲斐常治方につきました。
 そのため敏景の名を教景の名に戻しています。

 孝景はこの長禄合戦において、守護代方の主力として活躍しました。
 1459年に行われた足羽郡和田荘での合戦において勝利し、守護方についていた義兄の堀江利真と叔父である朝倉将景を敗死させるなど活躍します。

 孝景は朝倉家一門において、宗家であり当主の立場にありましたが、父・家景の早死などもあって、その大勢は磐石ではありませんでした。
 家督は祖父・教景の補佐のもと、孝景が継承していたものの、朝倉一族の中には反孝景派といった、孝景に従わない者もいたわけです。

 長禄合戦において勝利した孝景は、反孝景派であった一族分家の朝倉将景、朝倉景契、朝倉良景などを討ち果たし、このことで孝景自身の地位を高め、また朝倉氏の台頭のきっかけとなっていきました。

 また守護代であった甲斐常治は、長禄合戦の勝利の報を聞くことなく京都で死去します。
 このことは孝景の影響力が相対的に増す結果にもなりました。

応仁の乱

西軍として活躍

 1467年(応仁元年)に、斯波氏の内乱や足利将軍家の家督相続問題、はたまた畠山氏の家督相続問題などが相俟って、世に言う応仁の乱が勃発します。

 孝景は主家である斯波義廉と協力して西軍として戦いました。
 応仁の乱では御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなどに参加。
 また伏見稲荷では骨皮道賢を討ち取るといった功も挙げました。

東軍に寝返る

 応仁の乱において、西軍の将として活躍していた孝景でしたが、1471年に突如東軍へと寝返ります。
 これは魚住景貞を仲介して東軍の浦上則宗と接触し、将軍・足利義政と細川勝元から守護権行使の密約を手にしたことが要因でした。

 これは当然、越前一国の支配を念頭においたもので、孝景は越前平定に乗り出します。
 孝景はかつて長禄合戦で味方した守護代・甲斐常治の子である甲斐敏光と戦うことになります。

 1472年には孝景が府中を落とし、その後行われた坂井郡長崎庄での戦いにも勝利し、敏光は加賀に逃れます。
 しかし1474年になると、富樫幸千代の援助を受けた敏光が再度侵攻。これは美濃守護代格であった斎藤妙椿の斡旋により和睦することになりました。

斯波義寛の朝倉征伐

 1479年には尾張・越前・遠江守護である斯波義寛(長禄合戦で孝景が戦った斯波義敏の子)が、敏光を引き連れて越前奪還のために朝倉征伐を開始。
 京から進発した義寛は越前北部の坂井郡の細呂宜・長崎・金津にて孝景と交戦。
 1480年も戦闘が引き続き、長崎城、金津城、兵庫城、新庄城など朝倉方の城が落とされていきます。

 この坂井郡での戦いは斯波義寛が優勢であったものの、他の越前各所で行われた戦いでは朝倉方優勢で、一進一退の厳しい戦いが続くことになります。

 そんな中、1481年(文明13年7月)に、孝景は死去。享年54でした。

英林塚《朝倉孝景(敏景)墓所 英林塚》

 当主死去という状況下で、しかし朝倉家は崩れず、嫡男・氏景は同年9月15日の合戦で義寛と戦って完勝し、義寛は加賀へと逃亡。義寛による越前奪還は失敗に終わりました。

 氏景は孝景の兄弟である経景・景冬・光玖の協力を得て、越前統一を果たしました。

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天下一の極悪人

 朝倉孝景について、天下一の極悪人、と記された記録があります。
 これは孝景が公家領や寺社領の押領を頻繁に行ったため、公家や寺社にとって孝景は仇敵であったことに起因します。
 公卿であった甘露寺親長の日記によると、孝景のことを「天下悪事始行の張本」と記しています。
 孝景の死に際し、甘露寺親長は天下一の極悪人である孝景が死んだことは、近年まれに見る良いことである、とまで書いているほどです。

 この孝景の行った押領に対抗するため、興福寺別当の経覚は本願寺の蓮如を吉崎に匿い、浄土真宗の布教を許しました。
 このことが一向一揆発生の原因となり、以後の朝倉家最大の敵となっていくことになります。

朝倉孝景の人物像

 戦国時代初期において、下克上を先駆けて行い、天下一の極悪人とまで評された孝景でしたが、朝倉の兵卒には非常に慕われたといいます。

 後に朝倉家随一の名将となる八男・朝倉宗滴に劣らぬ軍略を持ち、一方で連歌や和歌にも親しみ、文化人としての素養もあったようです。

 また孝景個人の能力が優れていた一方で、彼を支えた朝倉経景、朝倉景冬、朝倉光玖といった弟達の存在も、孝景にとっての大きな力でした。

 朝倉孝景によって一乗谷に築かれた朝倉氏の礎は、その後約100年に渡って一乗谷を繁栄させ、11代当主・朝倉義景の代まで続くことになります。

朝倉家歴代当主

第1代 朝倉広景      1255年~1352年
第2代 朝倉高景      1314年~1372年
第3代 朝倉氏景(大功宗勲)1339年~1405年
第4代 朝倉貞景(大心宗忠)1358年~1436年
第5代 朝倉教景(心月宗覚)1380年~1463年
第6代 朝倉家景      1402年~1451年
第7代 朝倉孝景(英林孝景)1428年~1481年
第8代 朝倉氏景      1449年~1486年
第9代 朝倉貞景      1473年~1512年
第10代 朝倉孝景(宗淳孝景)1493年~1548年
第11代 朝倉義景      1533年~1573年

朝倉孝景 関係年表

 1428年 朝倉家景の嫡男として誕生。
 1451年 父・家景死去。
 1458年 長禄合戦が勃発。
 1459年 足羽郡和田荘での合戦にて勝利。
     甲斐常治死去。
 1460年 今川範将による一揆鎮圧のため、遠江に出陣。
 1467年 応仁の乱。西軍として参加。
     御霊合戦に勝利。
     上京の戦いに引き分ける。
     相国寺の戦いに勝利。
 1468年 伏見稲荷にて骨皮道賢を討ち取る。
 1471年 東軍に寝返る。
 1472年 坂井郡長崎庄での戦いに勝利。
 1474年 甲斐敏光と和睦。
 1479年 斯波義寛による朝倉征伐。
 1481年 孝景死去。享年54。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 蒼天禄より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
朝倉孝景  74  -  85  95

 『信長の野望 創造』では登場しないので、同シリーズの蒼天禄より。蒼天禄では武勇の能力が無いので何ともいえませんが、かなりの高スペック。しかし政治がやけに高いですね。応仁の乱の際の、東軍西軍を渡り歩き、越前を手に入れたことに対して、武勇よりも政治的な駆け引きの方を評価された、ということでしょうか。ともあれ優秀です。

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