朝比奈泰朝とは、今川家に仕えた重臣であり、今川家が滅亡する最後の瞬間まで主君・今川氏真に従い、その命を守ったことで知られている武将です。
また、井伊家当主であった井伊直親を誅殺した人物でもあります。
朝比奈泰朝(あさひな やすとも)
生年 1538年(天文7年)
没年 不明
主君 今川義元⇒今川氏真
親 父:朝比奈泰能
子 泰基
今川義元時代
泰朝の生年にははっきりしていませんが、1538年(天文7年)ではないかというのが、一説としてあるようです。
父親は朝比奈泰能。
また主君であった今川義元の母親である寿桂尼の姪にあたる人物が、父・泰能の正室であり、その縁もあって公家である山科言継との繋がりもあったようです。
1557年に父・泰能が病死すると、その家督を継ぐことになります。掛川城主となったのもこの時です。
1558年には霊山寺を再興。
1560年には主君・今川義元が尾張侵攻を開始。
その前哨戦となる鷲津砦の戦いに、井伊直盛と共に参加し、これを攻略します。
ちなみにこの鷲津砦の戦いにおいて、後世の史料などには今川方の参戦武将の名に泰朝の父親である泰能の名前がみられます。しかしこの時すでに泰能はすでに死去しているので、泰朝と名を書き誤ったのではないかというのが、定説のようです。
ともあれ、義元の尾張侵攻は順調に進んでいるかにみえましたが、ここで思わぬ事態が発生しました。
今川義元率いる本隊が、桶狭間にて織田信長の奇襲に遭い、総大将である義元自身が討死してしまいます。世にいう、桶狭間の戦いです。
これによって泰朝はやむなく撤退することとなりました。
今川氏真時代
義元死後、今川家の家督は嫡男・今川氏真が継ぎます。
しかし桶狭間の敗戦は今川家にとって甚大な被害を与え、領内では動揺が広がりました。
特に三河では配下であった松平元康(徳川家康)などが離反し、独立するなどして混乱が拡大します。
次々に離反する諸将の中で、しかし泰朝は氏真を支え続けました。
1562年には、謀反の疑いのあった井伊直親を、氏真の命によって成敗。
また越後国の上杉氏と交渉をもったりして、今川家の存続に力を注ぎます。
しかし1568年(永禄11年)、関係がこじれていた甲斐国の武田信玄
が、同盟を破棄して駿河に侵攻を開始します。
薩埵峠の戦いにて今川軍が武田軍に敗れると、その勢いで駿府も占領され、氏真は掛川城へと逃れ、泰朝はこれを迎えて保護しました。
この駿河侵攻では武田に呼応した徳川家康も、三河国から遠江に侵入しており、井伊谷城や白須賀城、曳間城を陥落させ、つには氏真の篭る掛川城を包囲しました。
この状況下で多くの家臣が武田や徳川に寝返るものの、やはり泰朝は氏真に対して忠義を尽くし、掛川城を死守する構えをみせます。
この泰朝や氏真の徹底抗戦は5ヶ月にも及びました。
援軍も無く、勝つ見込みの無い戦いであったものの、この粘りは結果的に主君である今川氏真を救うことになります。
武田と徳川は時を同じくして駿河侵攻を行いましたが、やがて関係が悪くなり、両者は手切れとなります。
徳川は今川との同盟国であった北条家に接近し、この北条氏の仲介を得て、氏真への降伏を持ちかけました。
これによって氏真は降伏を受け入れ、掛川城は無血開城し、今川家は滅びることになります。
その後氏真は北条家を頼ってその庇護を受けることになりますが、泰朝もこれに従ったようです。
しかし北条家当主であった北条氏康が死去し、その息子である氏政が後を継ぐと、氏真と北条家との関係が悪くなり、氏真は家康を頼って浜松に落ち延びます。この時に泰朝は同行しなかったようで、その後の消息は不明とされています。
朝比奈泰朝 関係年表
1538年 朝比奈泰能の子として誕生。
1557年 父・泰能死去。家督を継ぐ。
1558年 霊山寺を再興。
1560年 今川家の尾張侵攻。鷲津砦を攻略。
桶狭間の戦い。今川義元討死。
1562年 井伊直親を誅殺。
1568年 武田信玄による駿河侵攻。
1569年 掛川城の戦い。
今川家滅亡。氏真と共に、北条家に。
1571年 氏真、徳川家を頼るも、泰朝は同行せず。
以後、消息不明。
補足だか蛇足だか
信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政治 | |
朝比奈泰朝 | 72 | 68 | 59 | 35 |
戦闘系の能力は比較的高く、知略は並み。
あの徳川家康を相手に5ヶ月も持ち堪えてみせたのですから、もう少し評価されても……とは思うのですが、家康は城攻めは下手なイメージがありますからね。
となるとこんなものかも。