大坂城五人衆

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 大坂城五人衆とは、いわゆる大坂の陣(1614年~1615年)(慶長19年~慶長20年)において、豊臣方の主力戦力となった、五人の武将を刺す名称のことです。大坂牢人五人衆、とも呼ばれているようですね。

 該当する人物は、真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親・明石全登・毛利勝永の五名です。

真田信繁(真田幸村)

 五人の中で最も知名度が高いであろう人物。上田城の戦いで徳川を二度も負かした父・真田昌幸の次男でもあり、徳川と因縁深い人物といえます。昌幸はもちろん、その父幸隆も武田家臣として有名で、そもそも真田という名前自体が有名であり、真田三代における最後を飾った信繁が活躍したのが、大坂の陣でした。

 冬の陣においてはかの真田丸の戦いにおいて、幕府軍を撃退。夏の陣においては最終決戦である天王寺・岡山の戦いにて、家康を自害寸前にまで追い込むという大活躍をみせます。 しかし一歩及ばず、家康は九死に一生を得、信繁は討死しました。

後藤基次(後藤又兵衛)

 黒田家に仕えた勇将であり、黒田八虎の一人としても有名です。主君の一人である黒田長政との仲が微妙だったということでも知られています。

 黒田家は徳川についたにも関わらず、長政との仲がアレだったために黒田家を出奔。あっちこちから再就職のお誘いがあったにも関わらず、長政の嫌がらせ? を受けて叶わず、牢人に。大坂の陣では大坂城に入ることになります。

 夏の陣において、道明寺の戦いで幕府軍を相手に八時間も孤軍奮闘。しかし衆寡敵せず、討死しました。

長宗我部盛親

 四国の雄、長宗我部元親の四男。関が原の戦いでは戦うことができないまま敗軍の将となり、改易。土佐の大名としての地位を失ってしまいます。

 その後京都にて、寺子屋を営みながら雌伏。大坂の陣が始まると、大坂城に入城し、豊臣方として参戦。夏の陣においては八尾・若江の戦いで見事な指揮を執り、名将藤堂高虎を破るという戦果をあげました。

 しかし若江方面にて戦っていた木村重成が壊滅し、撤退。この時に受けた被害が甚大であったため、最終決戦には参加できないまま逢坂城は落城。逃亡するも捕らえられ、斬首となりました。

 執念深さはぴか一ながらも、運の無い人物であったといえるでしょう。

明石全登

 名前が読めないことで有名な人物ですね。
 読み方はぜんとう? てるずみ? 他にもいっぱいあります。

 宇喜多秀家の腹心で、かつキリスタン武将として有名です。
 関が原の戦いでは猛将福島正則相手に善戦するも、西軍は敗退。宇喜多家は改易となり、流浪することになります。

 大坂の陣においては天王寺・岡山の戦いに参加。家康本陣への決死隊として機会を伺うも、信繁の討死、勝永の撤退などにより、包囲を突破して戦場を離脱。

 討死した、という記録もある一方で落ち延びたという記録も多い人物で、五人の中で唯一その消息が知れない人物です。

毛利勝永

 関が原では伏見城の戦いで大きな戦果をあげます。しかし西軍敗退によって敗軍の将となり、その身柄は山内家に預けられることになりました。
 大坂の陣が勃発すると、土佐を脱出して大坂に入ります。

 その将としての采配ぶりは卓越しており、攻めては功をあげ、引いては見事に撤退するなど、五人の中で指揮官としては最も優秀であったと思われます。

 特に天王寺口の戦いでは信繁と同じかそれ以上の戦果を収めており、しかし信繁の活躍に隠れて彼ほど名を残せなかった人物としてもしられています。

「惜しい哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」

 落城の際には豊臣秀頼の介錯をし、その後自害したとされています。

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