豊臣秀頼 ~大坂の陣にて滅亡した、太閤秀吉の忘れ形見

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 豊臣秀頼とは、豊臣秀吉と、その側室であった淀殿の間に生まれた第二子。秀吉にとっては三男にあたります。
 秀吉の子といえば、最初に淀殿との間に生まれた子が早くに死に、その後に生まれたのが秀頼だから次男では? と思うところですが、実は秀吉には石松丸(羽柴秀勝)という長男がいたんですね。秀吉の長浜城主時代に生まれた子なので、秀頼よりが生まれた頃よりも20年ほど遡ることになります。ちなみのこの人物も早くに亡くなっています。

 豊臣秀頼(とよとみ ひでより)
 生年  1593年(文禄2年)
 没年  1615年(慶長20年)
 改名  捨丸(幼名)⇒秀頼
 家紋  五七桐紋(ごしちぎりもん)
 親   父:豊臣秀吉 母:淀殿
 兄弟  石松丸 鶴松
 妻   正室:千姫 側室:和期の方
 子   国松 天秀尼 求厭 


 秀頼誕生の際の秀吉の年齢はすでに57歳。この時すでに後継者である豊臣秀次(秀頼の従兄)が関白となっていたのですが、秀頼誕生によって後継者問題のような、ややこしいことになります。

 秀吉は秀次⇒秀頼という順で跡を継がせようとしていたようですが、1595年に秀次自刃に及び、秀頼が正式な後継者として確立することになりました。

 しかし秀頼はまだ幼かったので、五大老や五奉行といった制度を用い、それまでの秀吉の独裁体制から移行させ、秀頼を補佐できる体性を整えていきます。もっともこれは、秀吉死後に石田三成徳川家康の対立に繋がっていくことになるわけですね。

関ヶ原の戦い

 1600年についに三成が挙兵。関ヶ原の戦いが勃発します。秀吉の遺臣が東西に分かれ、秀頼のため、というのを大儀に掲げてぶつかったわけですね。

 結果として家康が勝利すると、よくやったと秀頼は家康を労いますが、実際のところはどうだったのか。もっともこの頃の秀頼はまだ幼いので状況判断ができたとも思えず、いいように利用されたとみるべきでしょう。

 その証拠といっていいかどうかは分かりませんが、戦後処理において、秀頼の所領はそれまで220万石あったのですが、65万石にまで減ってしまいます。これは家康がいいように分配して豊臣の所領を削ったわけですね。
 これによって天下人であったはずの豊臣家は、一大名に転落してしまいます。

 1603年に家康は征夷大将軍となり、またこの年に家康の息子である秀忠の娘である千姫と結婚することになります。

二条城会見

 1611年。成長した秀頼ですが、この年に問題の家康との会見が行われました。秀頼は加藤清正らを随伴しつつ、京都二条城にて家康と会見。ちなみに逸話ではありますが、成長した秀頼はちょっと成長し過ぎていたようで、身長197cmで体重161kgの馬鹿でかい大男だったそうです。

 本当かな、と思うような数値ですが、そんな秀頼を見て年老いた家康は恐怖し、豊臣打倒を決意したとかいう話もあるほどで、その武将としての威厳はこの時、マイナスにしか作用しなかったのかもしれません。

大坂の陣

大坂冬の陣

 1614年、家康の言いがかりである方広寺鐘銘事件が起こり、大坂冬の陣が勃発。

 この戦いで豊臣方は士気旺盛も烏合の衆であったため、幕府軍を相手に苦戦を強いられます。しかしそれら浪人衆の活躍や、そもそもにして大坂城の防御能力が半端無かったこともあって幕府方は攻め切れず、更にはかの真田丸の戦いにおいて、手痛い敗北を受けてしまいます。

 どちらも苦戦する中、和議が結ばれました。秀頼はこれに反対しましたが、淀殿の主張により、結局為されることとなりました。

大坂夏の陣

 しかしすぐにも戦争は再開されます。いわゆる大坂夏の陣です。

 すでに豊臣方の敗色濃く、各地で敗戦。奮戦する大坂方の武将は次々に討ち死にしていきます。
 そして最後の戦いを挑むことになるのですが、それが天王寺・岡山の戦いです。
 この時秀頼は出馬を望んだようですが、結局叶うことはありませんでした。母親である淀殿の反対があったためです。

 結果、毛利勝永真田信繁の活躍もあって、その戦い振りは賞賛されるものの、ついには力尽きて壊滅。丸裸となった大坂城に幕府軍は侵入。やがて城内の裏切りもあって大坂城は炎上し、秀頼は自害するに至りました。享年23。

 秀頼には息子がいましたが、捕らえられて殺害。娘は仏門に入ることで許され、生きながらえたようです。

豊臣秀頼 関係年表

 1593年  8月 大坂城で誕生。
 1593年10月 豊臣秀次の娘と婚約。
 1595年  8月 豊臣秀次自刃。
 1596年  9月 元服。藤吉郎秀頼と名乗る。
 1598年  8月 秀吉死去。
 1600年10月 関ヶ原の戦い。
 1603年    徳川秀忠の娘、千姫と結婚。
 1605年  4月 右大臣に昇進。
 1607年  1月 右大臣を辞す。
 1611年  3月 京都二条城にて家康と会見。
 1614年11月 大坂冬の陣。
 1615年  4月 大坂夏の陣。
 1615年  6月 秀頼自害。豊臣家滅亡。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
豊臣秀頼  53  43  41  56

 秀吉の後継者でありながら、これといった活躍ができないまま没したせいか、能力は低め。せめて最後の戦いに自ら出陣できていれば、結果はさておいても評価が変わってきたのかもしれませんね。

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