大谷吉継 ~石田三成の盟友、大谷刑部

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 大谷吉継とは戦国時代の武将であり、越前敦賀城主を務めた豊臣家家臣です。
 業病を患いながらも盟友・石田三成との友誼を果たすために輿に乗って指揮し、関ヶ原の戦いに参戦したことで知られています。

 大谷吉継(おおたに よしつぐ)
 生年  1565年(永禄8年)
 没年  1600年(慶長5年)
 別名  吉隆 紀之介 平馬 大谷刑部  
 主君  豊臣秀吉⇒豊臣秀頼
 親   父:大谷吉房
     母:東殿
 兄弟  妹:こや(小屋)
     下間頼亮室
 子   吉治(吉勝) 木下頼継 
     泰重 竹林院(真田信繁室)

三振の太刀

 1565年(永禄8年)、近江にて誕生。
 父親は大谷吉房です。

 盟友であった石田三成同様、秀吉が天下を取るあたりまでは大きな露出はありません。
 最初秀吉には小姓として仕え、その後秀吉に従って各地を転戦したようです。

 歴史の転換点はやはり本能寺の変で、吉継の主君である秀吉は明智光秀を打ち果たして天下取りに向かって一歩前進。織田家重臣である柴田勝家との対立が決定的となり、ついに1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いが勃発します。

 賤ヶ岳の戦いといえば「七本槍」が有名ですが、それに勝るとも劣らない大手柄を吉継は三成と共に立て、「三振の太刀」と賞賛されました。

敦賀城主~朝鮮出兵

 1589年(天正17年)になると、越前国敦賀郡二万石を与えられて、敦賀城主となりました。

 その後1590年(天正18年)の小田原征伐、奥州征伐にも従軍。

 また朝鮮出兵にはどちらかといえば三成同様、後方支援的な要素で功をあげました。

関ヶ原へ

 吉継の盟友である三成と、徳川家康の戦いとなった関ヶ原ですが、吉継は家康とも親しかったとされています。
 家康は豊臣の臣下であったため、お互いがお互いを知る機会があり、お互いのその器量を認め合っていたのかもしれません。

  会津征伐の折には吉継に対して12万石の加増を約束していたという逸話も残っているほどで、吉継が三成についたことで、家康はずいぶん狼狽したともいわれています。

  しかし吉継は友情に殉じ、敗戦を見越した上で三成方につくことを選びました。この辺りが大谷吉継の人気を高めている要因の一つかもしれません。

 合戦が開始されると藤堂高虎、京極高知を相手に奮戦。だが関ヶ原といえば小早川といわれるほどの小早川秀秋が裏切り、吉継隊に向け攻撃を仕掛けます。

 しかしさすが名将といわれた吉継だけあって、秀秋の裏切りを警戒していたこともあり、一万を越える秀秋隊を幾度と無く押し返す獅子奮迅の戦いを見せ付けました。

  ところがその秀秋の裏切りに備えていた脇坂、朽木、小川、赤座といった諸将もまた寝返り、吉継隊に向かって横槍を入れました。さすがの吉継といえど、東軍と寝返った諸将に包囲殲滅され、壊滅。ついに自害に及んだわけです。

 このことがきっかけとなって戦局は一気に東軍側有利となり、関ヶ原の戦いはあっさりと終局したのでした。

石田三成

 何かと評判のよろしくない(近年再評価されてきていますが)三成を語る上で、花を持たせるには無くてはならない人物が吉継です。

 特に戦国時代などは今日の友は明日の敵、といった具合に裏切り寝返り下克上何でもござれの時代だっただけに、最期まで友情に殉じた姿勢は余計に美談として知られているようです。刎頸の交わり、とまでいわれたそうです。

 特に有名なのが大坂城で開かれた茶会でのエピソードで、茶碗の回し飲みをする際に、病気だった吉継が口をつけた茶碗を誰もが口をつけなかった中で、三成のみが平然と口をつけた、というものです。もっともこのエピソードが実際のところ、本当であったかどうかは不明であり、創作の可能性もあるのかもしれません。とはいえ美談であり、吉継が関が原で三成に殉じた逸話とセットで有名な話ではあります。

病気

 吉継といえば病気を患っていたため、顔を白い布で覆って隠していたとされています。
 ただこれもまた確かではないようです。一方で目の病気を患っていたのは確からしく、関ヶ原では輿に乗って戦いました。

 ちなみに余談になりますが、吉継の息子である大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人。
 大坂の陣において徳川勢と再び戦うことになります。真田信繁とは義兄弟になるわけです。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
大谷吉継  86  65  89  80

 うーん、優秀ですね。病気で目や身体を患っていたためか武勇は普通ですが、あとは80オーバーと高めの設定。さすが名将といわれ、文武両道だったことが伺えます。

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