富田長繁 ~越前の狂犬、越前国を大混乱に陥れた狂人か

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 富田長繁とは朝倉氏に使えた家臣であったが、これを裏切り織田信長に下り、主家滅亡後の越前国において暴れに暴れて大混乱を巻き起こし、最期は味方に裏切られて命を落とした人物として知られています。

 その狂人ぶりから越前の狂犬、ともいわれているようです。

 富田長繁(とだ ながしげ)
 生年  1551年(天文21年)
 没年  1574年(天正3年)
 別名  弥六朗
 主君  朝倉義景織田信長 親   父:富田吉順
 子   庄左衛門


 長繁はまず朝倉義景に仕えました。義景とは朝倉(英林)孝景から数えて5代目の戦国大名です。

 朝倉氏はこの頃織田信長と争っており、長繁の名前が初めて出てくるのは1570年(元亀元年)で、信長のの越前侵攻に際してです。その後1572年に朝倉を見限り、織田に寝返ります。この時に寝返った朝倉家臣の者は多くおり、前波吉継、毛屋猪介、戸田与次郎などがいました。

 そして朝倉氏が1573年に滅ぼされると、長繁は越前府中の領主に任じられます。主家を裏切って領地を安堵されたわけですが、それはこの時代珍しくないことです。忠節を尽くして主家と共に滅びる者もいれば、見限って新たな野心を抱く者もいたことでしょう。長繁は後者だったわけですが、彼の「狂犬」ぶりはここから始まります。

一揆を扇動して桂田長俊を討つ

 彼の最初の標的になったのは桂田長俊(前波吉継が改名)でした。この人物は長繁よりも早く織田方に寝返ったのですが、そのせいか越前国の守護代に任じられていました。
 一方の長繁は府中領主。この差に長繁は不満を持つことになります。
 また長俊は長繁のことを知行を与えすぎであるとか、府中領主になったことに対して批判するような訴えを起こしていたそうで、当然両者の仲は最悪だったようです。

 この桂田長俊は越前国で圧政を敷き、その悪政に不満を持たれていました。
 そこでそんな人達を長繁は扇動して、土一揆を引き起こします。その数3万3000人。長俊に対抗できるすべはなく、長俊やその家族を殺害されました。

暴走する長繁

 ここまでは大儀があったといえば、ありました。しかしこれで調子づいた長繁は止まりません。勢いに乗って、代官として派遣されていた木下祐久・津田元嘉・三沢秀次を襲撃。彼らは絶体絶命の危機に立たされるわけですが、朝倉家旧臣である安居景健と朝倉景胤の説得により、九死に一生を得ることになります。

 しかし長繁は説得されても止まりませんでした。矛先を変え、かつての同僚である朝倉家旧臣の一人、魚住景固を朝食に誘って彼の息子もろとも斬殺。その勢いのまま魚住氏の居城に攻め込み、魚住氏を滅ぼしてしまいます。
 これが長繁にとっての大失態でした。

 前述の桂田長俊と違い、魚住景固は仁者として慕われていました。つまり一揆の矛先が向けられるような人物ではなく、長繁が傍目には何の理由も無く魚住氏を滅ぼしたことで、民心を失い、かつ朝倉家旧臣の者は警戒して誰も寄ってこなくなりました。
 ここから長繁の孤立が始まります。

越前を掌握するも、最初に扇動した一揆が敵に

 ともあれ混乱した越前国を一時的にとはいえ支配下におさめた長繁は、その支配権確立のために色々政策を行い民心を得ようとしますがうまくいかず、それどころか一揆勢を敵に回す羽目になってしまいます。
 そしてその一揆勢、加賀にいた七里頼周も呼び寄せ、土一揆だったものは一向一揆に進展。越前のいたるところで決起し、越前は大混乱に陥ります。

 標的とされた長繁も一揆勢に包囲されていきます。その数14万。対する富田軍700。圧倒的な兵力差に、勝機はありませんでした。
 しかし長繁はただ前進あるのみで、決死の覚悟で突撃を敢行。一揆勢の一角を打ち破り、壊走させてしまいます。

 これによって勢いを取り戻した長繁は即座に次の手を打ちます。一向宗、つまり本願寺と仲の悪い真宗三門徒派を懐柔し、6,500人の兵力増員に成功。しかしまだまだ兵力では圧倒的不利な状況には変わりませんでした。

 ところが長繁は数は多けれども烏合の衆でしかない一揆勢に対して有利に戦局を維持。そのまま勢いで押し勝ってしまいます。大勝利でした。

狂犬、死す

 しかし長繁はまだ止まりませんでした。勢いのまま、傍観に徹していた安居景健と朝倉景胤へと襲い掛かります。

 これは全く休まずの強行軍だったわけで、絶倫な長繁はともかく、ついて行く兵の方は耐えられるものではありませんでした。そのため攻め切れず、いったん兵を引きます。
 しかし翌日には再度突撃を敢行する有様でした。

 このような無茶に、ついに不満が爆発します。この合戦中に味方である小林良隆によって背後から鉄砲で射殺され、首を取られました。享年24。
 朝倉氏滅亡を挟んだ数年間、暴れに暴れた人生でした。

 これだけのエピソードからも、長繁が武勇に優れていたことはうかがえます。一揆14万を撃退という件は、かつての九頭竜川の戦い(朝倉宗滴が一向一揆30万を破った戦い)を彷彿とさせるものがあります。そのため長繁は中国の前漢の猛将である樊噲になぞらえて評されたいたといいます。

 ともあれひたすら突き進んだ長繁が残したものは、越前国の大混乱でした。越前一向一揆とよばれる争乱は越前国一帯に及び、信長は越前を失陥し、加賀に続いて越前も百姓の持ちたる国になってしまうわけです。

富田長繁 関係年表

 1551年 富田吉順の子として誕生。
 1570年 織田信長の越前侵攻に対して出陣。
 1572年 織田軍に寝返り。
 1573年 朝倉家滅亡。
     府中領主に任じられる。
     長島一向一揆攻めに従軍。
 1574年 越前にて土一揆を扇動。桂田長俊を殺害。
     魚住景固を殺害。鳥羽野城攻め。
     一向一揆14万を破る。
     長泉寺山の砦を攻める。
     小林吉隆に裏切られ、討死。享年24。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
富田長繁  41  64  16  11

 あれだけ暴れまわった割には、武勇は64といまひとつ。狂っていた分、評価が低めなのかも。
 そして腐った脳味噌。知略・政治が低すぎて、武勇が64でも輝いて見えますねえ。しかしどこぞの南蛮武将のような能力値だ……。

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