島左近 ~三成に過ぎたるもの、島清興

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 島左近とは戦国時代の武将であり、石田三成の家臣です。
 本名は島清興といいますが、一般的には島左近の名前で知られています。

 「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と称されるほどの逸材であったといわれています。
 左近は三成の側近ですが、その召抱えにあたって三顧の礼をもって破格の待遇で迎えられました。

 島清興(しま きよおき)
 生年  1540年(天文9年)
 没年  1600年(慶長5年)
 別名  左近 勝猛 友之 清胤 昌仲 
 主君  畠山高政⇒筒井順政
     ⇒筒井順慶⇒筒井定次
     ⇒豊臣秀長⇒豊臣秀保
     ⇒石田三成
 親   父:政勝
 妻   茶々(北庵法印の娘)
 子   信勝 友勝 清正 
     娘(小野木重勝正室)
     珠(柳生利厳室)

石田三成に仕えるまで

 1540年(天文9年)に大和に生まれ、まず河内の守護だった畠山氏に仕えました。
 その畠山氏の没落後、筒井氏に仕え、主君である筒井順慶を支えたとされます。

 その後、筒井氏によって大和国は統一されるわけですが、代替わり後、新たな主君となった筒井定次と意見が合わなかったようで、筒井家を辞しました。これが1588年(天正16年)のことです。

 その後、蒲生氏郷や豊臣秀次、豊臣秀保に仕えたとされます。

 そんな左近に石田三成から仕官の要請がきます。
 左近は逸材だったようで、それまで多くの要請があったそうですが、ことごとく断っていました。左近は例によって三成に対しても断るわけですが、三成の再三の説得により受け入れたとされます。

 この時の俸禄が2万石ということで、三成の禄高が4万石だったことを考えれば、それが破格の待遇だったと伺うことができます。

 もっともこれには諸説あり、三成が19万石の佐和山城主になってから左近は仕えた、という説もありますが、だとしても相当な待遇だったことは間違いないようです。

 何にしろ左近が三成に仕えた時期については1591年から1592年の間とされているようです。

関ヶ原の戦い

 天下分け目の戦いである関が原の戦いに、左近も三成の側近として従軍しています。
 その前哨戦にあたるの杭瀬川の戦いでは、局地戦ではあったものの、左近や明石全登率いる西軍が大勝しました。

 本戦では左近自ら陣頭に立ち、西軍有利に戦局を進めますが、小早川秀秋の裏切りにより、西軍総崩れとなって左近もその時に戦死したとされています。

 その最期は、黒田長政軍と戦い、銃撃によって討ち死にした、というものだったそうです。

 この最期の戦いの際の左近の勇猛ぶり、また狂気じみた奮戦ぶりは東軍の中でも語り草になったそうで、その左近を討ち取った黒田勢の兵は戦後数年たっても戦場での悪夢にうなされたとも伝わっています。

 真田信繁も敗戦でありながら大阪の陣で名を上げた武将でしたが、この島左近も同じように、敗戦でありながら関ヶ原の戦いで大いに名を上げた武将だったといえるでしょう。

 ちなみに俗説として、関が原の戦いでは死なず、落ち延びてその後1632年(寛永9年)に没した、というのもあったりします。これは左近の遺体が見つかっていないことからも、そんな伝承が起きたようです。

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
島左近  88  92  77  45

 さすが猛将ですね。ちょうど三成の苦手な部分をカバーできる能力です。

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