出浦盛清(出浦昌相) ~真田氏に仕えた、甲州透破の棟梁

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 出浦盛清とは戦国時代から江戸時代にかけての武将であり、真田氏の家臣です。
 出浦昌相の名でも知られており、上平城主(出浦城主)や岩櫃城の城代を務め、また忍者の棟梁としても知られています。

 出浦盛清(いでうら もりきよ)
 生年  1546年(天文15年)
 没年  1623年(元和9年)
 別名  昌相
 主君  真田昌幸⇒真田信之
 子   幸久

武田氏から織田氏に仕える

 出浦盛清は1546年(天文15年)に、信濃国埴科郡出浦に生まれました。

 当時の信濃国の情勢は、北信濃の戦国大名であった村上義清が武田信玄に敗れて越後国へと逃れて没落。
 これにより、盛清は武田氏に臣従して、甲州透破、いわゆる忍者を統率することになります。

 しかし武田氏は1582年(天正10年)に天目山の戦いにおいて滅亡。
 これにより織田氏に属し、森長可についたとされています。

 その織田氏も時をおかず、同年に起きた本能寺の変により、当主・織田信長が横死。

 森長可が海津城から撤退する際、その配下となっていた信濃衆は長可を裏切るも、盛清のみがその撤退に協力し、長可は感謝して脇差を与えたとされています。

真田氏家臣として

 織田氏が信濃から撤退すると、頭角を現してきた武田氏の旧臣・真田昌幸に盛清は仕えるようになります。

 更級郡上平城主や岩櫃城城代を務め、同じ真田氏家臣であった忍者の横谷幸重(横谷左近)らと共に忍び衆を統率。

 1590年(天正18年)の小田原征伐においては真田軍として従軍し、忍城の戦いにて活躍しました。

 その後、関ヶ原の戦いを契機に真田氏は二つに分かれ、盛清は昌幸の嫡男であった真田信之に仕えます。

 江戸時代になり、信之が松代藩の藩主となると、忍者と棟梁となりつつ、武者奉行になったとされます。
 
 そして1623年(元和9年)に死去。享年78。

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